「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【13】第三章 呼び戻されて

生まれ故郷に住み直すようになって私の人生は逆流した。人生の歯車は、凄まじい勢いで逆回転し始めたのである。有無を言わさず、「生後十カ月の空襲」に引き戻されたのである。

あらためて流れを整理してみた。

1991年(平成3)7月、大学進学以来28年ぶりに生まれ故郷に帰り、父親と同居することになった。

1994年(平成4)2月、隣町の私の持家に転居した。私は高校3年の時にこの青木家に松本家から養子として入籍した。

この転居の直後に父親から生母清子の話を聞かされたのである。私はそのころ苛立っていた。私の意向が松本家にいっさい反映されないのである。私は言い放った。

「もうこれからは松本家がどうなろうが知ったことではない。青木家いっぽんで行く」

父の顔色が変わった。

「おまえは誰のおかげで生きておれるのか」と、空襲の際に私が生母と祖母によって助けられたのだと告げた。私は驚いた。生母の死後再婚した父が、子供たちに生母のことを口にだすことは稀であったからだ。言わば私への遺言だったのだろう。

その父も1999年1月に他界した。そのことで父への遠慮は亡くなった。子供たちの間でおおっぴらに生母のことが話題にのぼるようになった。特に姉たちは末っ子の私に生母のことを伝えようとした。

私には兄と姉がふたりずついる。しかし四人と私のとは微妙な違いがある。それは「母」と関係している。私以外は母とは生母のことであり、私にとっては母とは養母のことなのである。そのことには理由がある。戦後すぐに私だけは生母と離れて祖父母に育てられたのである。

当時生母は肺結核を患っていた。にもかかわらず父は、母と4人の子供を連れて新任地の隣町に引っ越して行った。

病身の母には幼子の育児は負担になるとして私は祖父母のもとに残された。そして悲運にも同居が叶って1年余りで母は死んだ。その直後、養母が家に入った。

次姉から清子の日記が届いたのは父が死んだ5カ月後である。彼女は床に伏す母の枕元に絶えずいたという。母の日記は小型のノートにしたためられていた。私は整理してふたりの姉と叔母に送った。次の文を同封した。

前略

清子母さんの日記を打ち終わりましたのでお送りします。ともかくありのままの再現をめざしましたので、誤字、脱字をも含めてそのままにしています。ただ私のワープロの能力の限界で、旧漢字表記にできなかったところもあります。

日記の表紙には、「遺書」と記され、ローマ字で名前が書かれていたので、それを一ページとしました。名前の部分は、実際は筆記体だったのですが、ワープロの都合で活字体にさせてもらいました。その他に打ち込みの間違いがあれば教えてください。

最後にお願いです。久野おばあさんの写真を探しています。お譲りいただけないでしょうか。よろしく。

私は清子の日記を読み込むことより、ワープロ画面上にその1字1句を再現することを優先した。清子の肉筆が目の前にあった。昭和23年6月26日から9月30日までの日々が綴られている。

母さんはこんな字を書いたのか。こんな言葉を使うのか。1文字1文字が愛おしくてたまらない。微かに母の息づかいを感じながら作業を黙々とつづけた。

(青木忠)

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