「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【12】第三章 呼び戻されて

私は生母清子のことを父から教えられ大きく変わった。清子を追い求めて故郷に帰ってきたのではないか。今もなお清子が私を導いているようだ。清子が私を呼び戻したのではないか。

「もしかしたら、そのうちいつか故郷に帰って住むようになるかもしれない」という予感が脳裡を過ぎった最初は、一九八五年(昭和六〇)の秋のことである。

その年の一〇月、日立造船が因島工場の新造船部門からの撤退を発表し、「島が沈む」とも言われた危機が訪れた。「ひどいことをしゃがる」と怒りが込み上げてきたことを今でも忘れられない。

そのころからである。自分の住む関東地方に瀬戸内海を求め、しきりに釣りに行くようになった。千葉県の房総半島や神奈川県の三浦半島で度々遊んだ。

釣果はともかく、そうしたひと時は無性に楽しく、釣行の前夜は興奮のあまりほとんど眠れない有様であった。しかし、釣りをした海岸にそのまま居つづける訳にはいかない。民宿に一泊するのがやっとのことである。

時間が来て棲家に帰る際の物悲しさと言えば、例えようのないものがあった。ずっと海のすぐ近くに居ることができさえすれば、帰る必要は無いと言うのに――。

回想してみるに、その想いはまぎれもなく望郷の念の高まりだったのであろう。

父は清子のことを私に告げるチャンスを待っていたに違いないのである。生母のことを知らせることで息子の歩まねばならない人生の進路を示したのである。

父は一九九九年一月に死んだ。享年九四歳だった。それから三年後に私は、家族の運命を暗転させた一九四五年七月二八日の空襲を調べ始めた。その日、母と祖母、そして生後十カ月の私に何があったのか――。

昨秋、父の遺品として小さなノートを発見した。表紙には、「昭和九年夏 家のこと 松本」と毛筆で記され、父が養子に入った松本家の慣わしなどが書き込まれている。表紙をめくるや、裏表紙に赤鉛筆による記述があった。

「爆撃
昭和廿年七月二十八日
午前十時二十分頃」

鮮烈である。何故その部分だけが赤鉛筆なのか。その赤色は父の万感の想いの現われなのであろう。住居は全壊し、祖母、妻、息子が生埋めになった。運悪ければ三人とも生命が絶たれたのである。妻と祖母は命を賭して覆いかぶさり、赤子の息子を守った。

私は、それまではほとんど意識の外にあった生母と祖母の実在を切ないほどに感じ取りたかった。生母とは、自らの命にかえてでもわが子を守ろうとする存在なのか――。

遥か彼方に行ってしまった生母と祖母の実像をたぐり寄せる営みが始まった。とりわけ、まったくと言ってよいほど記憶が残っていない生母の追慕に懸命になった。

そうしたある日のことである。大阪府堺市に住む次姉との電話でのやりとりのなかで、思わぬことを知った。彼女は生母の日記を持っていると言うのだ。

「あんた、お母ちゃんの日記があるのを知ってるか」

「いや、知らんよ」

「あんた、読んでみるか」

「それ読みたい、すぐ送ってちょうだい」

「分った。すぐ送るわ」

私の胸は高鳴った。

(青木忠)

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