空襲の子【3】因島空襲と青春群像 封印された空襲(中)「因島市史」について

青木 忠

 実は、因島空襲を「封印された空襲」と呼んだのはわたしではない。昨年7月に特集「語り継ぐ空襲」・因島空襲の取材のために因島を訪れたNHK広島放送局・尾道報道室の安井俊樹記者が、わたしの「資料がほとんど残されておらず、実態がよく分らない」という説明に対して使用した言葉であった。

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因島図書館に所蔵されている因島市史(右)と日立造船社史

 ではなぜ、誰が封印したのか。それが、わたしにとって大きな調査テーマとして浮上した。

 日立造船の社史は、昭和20年の2回にわたる米軍の空襲を記しているが、なぜか「数名の死傷者」「軽微な損害」と極度の過小評価の描写を行なっている。しかしだからと言って最大の空襲被害者である日立造船がその事実を封印したとは思えない。

 因島土生町の故入澤弘生善行寺住職はある回想記において次のように語っている。

―昭和23年、因島工場から善行寺前住職に感謝状を頂戴しました。それには功績が述べられてあります。「殉職慰霊碑への参拝回向は毎月欠くことなく、例年実施する慰霊祭には準備より終了まで万端の御協力を受け」(中略)「昭和20年7月、米国機当所空爆の際は自ら寺院を開放して死者60有余名を収容し、納棺、火葬に至るまで献身的なる御尽力を受けたるは、今も猶感謝に耐えざるところであります」。

 この住職の回想を読んでわたしは、日立造船が意識して空襲の事実を封印したのではないと思った。そして次にわたしは、行政に目を向けた。故青木茂氏を編者とする「因島市史」=写真右=である。

 青木茂氏は、明治31年因島椋浦町に生まれた。尾道市立尾道短期大学教授をへて神戸学院大経済学部経済史教授を務めた。中国新聞文化功労者、尾道市文化功労者として受賞。実はわたしの義理の叔父で、わたしは現在、青木茂氏の生家を継いでいる。

 青木茂氏は、あとがきで次のように述べている。

―近世・近代・現代に、もの足りなさのあることを、自分でも感じる。惜しいけれども、近代資料が少ない。敗戦のさい、どこの自治体でも、多くの書類を整理した。マッカーサーの進駐に気をつかったからである。さらに引きつづいて、合併である。

 そして

「誰かに書き足してもらはねばならぬことを信じて、筆をおいた」

とも語っている。事実、空襲についてほとんど触れていない。

 敗戦後、因島も例外ではなく占領軍(GHQ)の市支配下にあった。とくに軍需工場として戦争の主翼を担ったとされた造船産業は、GHQによって造船施設が撤去され、大半の設備や付属品が賠償指定された。

 日立造船因島工場においても、官民あげて陳情団が賠償除外運動に上京し、調査団が来島したりしたが、ようやく昭和21年、賠償指定から除外されることになった。

 こうして住民たちは、敗戦国民としての現実を思い知らされることになった。米占領軍の言いなりになるなかに、戦後の再建の道を見出すのであった。

(つづく)

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