誇るべき修道健児4人のへこたれぬ魂「咲いた桜・散った桜」【3】

岡野壮一郎

岡野壮一郎さん

岡野壮一郎さん

因島は村上水軍、島は、村上と岡野姓が殆んど。おまけに囲碁の本因坊秀策の生誕地。囲碁が盛ん。歴史の古い町。その島の大地主の坊ちゃんで何不自由なく育った。

古川屋という屋号で建具商、祖母と母が商い、裕福な資産家。父は早稲田大学を出て陸軍中尉(壮一郎と小学生同級生、白滝山荘、矢田部氏談)。岡野壮一郎は、昭和19年8月、1年生の夏休みで帰省し、家族に寄宿舎生活、学校の様子を話して聞かせた。

同室の須山さんは親切で、平山さんは、腹がすいているときは、絵を描いていたら、紛らわせると色鉛筆を走らせておられた。勝村さんには、勉強を教えてもらって、寄宿舎生活は快適で楽しく満足していると。

学校は、国崎登中将が校長で、ぱっと敬礼するのが、お父さんと同じで格好がいいよ。また、制服の両袖に白線が一本入っているのが、修道の生徒とすぐわかり、いつも、しゃんとしておらねばいかんのよ、これは修道の誇りなんよ。

祖母と母は目を細めて聞き入って、妹たちは、それから、それからと、次々と聞きたがった。(同級生赤尾四郎氏談)家の庭の木陰で涼しい風を受けながら、『ジョン万次郎漂流記』『森鴎外全集』を読んで夏を楽しんだ。

寄宿舎の大豆めしや、おじやと違って、食事は腹一杯食べられるし、やはり家はいいなー、生まれてよかったなーと痛感した。

昭和20年8月4日(原爆の2日前)、学校へ県庁から電話が入った。8月6日建物疎開の生徒動員(中学2年300人)全員を出すような命令だった。学年担任の秋山元英先生(物理、化学)は、部下の松石義郎先生(物理、化学)と諮り、どうしても大事な学校行事があるので、半数しか出せないと(値切って)押し問答の末、やっと了解を得た。

秋山先生は、数日前から胸騒ぎがして眠れなかった。それが悪いことに現実となって8月6日の原爆の惨劇となり、雑魚場町の建物疎開で貴重な150名の生徒の命が失われてしまった。

しかし、秋山先生の好判断で半数の150名の生徒は、登校していたので全員助かった。何人かは負傷したが。人間の運命とは紙一重なのだ。(登校し生き残った同級生永谷道孝氏談)。

岡野は雑魚場町で被爆し瓦礫の下からはいでて、半袖だったので火傷して、腕の皮膚が垂れ下がり、頭からも出血していて、ふらふらになって、いったい何が起こったのか考える力がなかった。

火焔が襲ってきたので痛む足をひこずり、杖をついて長い時間がかかって寄宿舎へやっとたどり着いた。

寄宿舎はペッシャンコにつぶれていたので敬道館で寝た。喉がカラカラに渇いたので水が欲しいと思ったが水道が出ない。足が痛んで立てない。匍匐前進してプールにやっとたどり着き、水をがぶ飲みした。

プールの芝生で寝た。日が暮れると血の臭いを嗅ぎつけた蚊の大群が襲って来て、また敬道館へもどりピアノの下へもぐりこんだ。

そのとき敬道館のまわりに白線一本の生徒が数人いて、水、水と叫んでいた。長い暑い1日が過ぎて夜が明け8月7日の朝は静かな朝だった。

岡野はもうろうとしながら母を呼んだ。水、水と訴えた。いつまでたっても水は届かなかった。日が昇ると暑い太陽が傷口にしみた。すると意識がもどり水がむしょうに欲しくなってプールに行こうとしたが、体が全然動かず、弱っていくのが自分でもわかった。そうして昏睡状態になりながらまだ生きていた。

ジョン万次郎が漂流して死にそうになった気持ちがわかり、俺も死ぬかもしれんと思い、いや万次郎は助けられたのだ、俺も誰か救助に来てくれるかもしれん。

街は丸焼けになっているので、誰もおらん、そんなことは駄目かー…。水、水、へこたれるな、頑張れ。

太陽が熱い。意識が混濁したとき…。『壮一郎、壮一郎』と呼ぶ声が聞こえた。母の声だ。

俺は、いよいよ死ぬなー。死ぬってこんなのかー。と思ったら母の顔が大きく目に入った。そんなことはない、母は因島だ。俺の頭が狂っているのだ…。

そのとき、飲みたい水が、ゴボゴボと喉を通った。薄目をあけると本当に母がいた。「えっと探したんよ、よう生きておったね、私が助ける。気をしっかり持って!」涙をポロポロ流して、その涙が壮一郎の頬に流れ落ちて熱く感じた。

母は近所で大八車を買い、壮一郎を乗せて広島駅に急いだ。街は煙をあげて燃えているし、炎天下で汗がふきでて喉が渇く。

壮一郎には水筒の水を飲ませ、母はボウフラのわいた防火用水の水を飲んでひたすら駅をめざした。

広島駅は大勢の人で混雑し、座り倒れ寝て足の踏み場もないほど負傷者があふれていた。汽車はなかなか来ない。何も遮蔽物のない大八車の上で壮一郎は死にかけていた。

やっとホームに入ってきた汽車に、人々は群がって乗った。母は壮一郎を背負い火事場の馬鹿力で汽車に乗せ、デッキの端だったが寝かせることもでき、そこは日陰になり走れば風で涼がとれた。

母は妊娠5ヵ月の身重の体だった。どこに、そんな力や勇気があったのだろう。子を思う母性愛、母親の必死の愛、慈母神の心が力となった。

尾道駅からポンポン船を雇い札束を払った。(須山正実談、最上級生の須山徹さんの奥さん。奇しくも壮一郎の妹さんと同級生で仲良しだった)長い苦しい一日を戦って、やっと帰った母子は倒れるように2人並んで寝た。

壮一郎は意識ははっきりしており、学校や級友のことをしきりに心配していたが、8月12日、容態が急変して皆に見とられて帰らぬ人となった。安らかな死に顔だった。祖母は遺体が収容できただけでも親孝行なことだと号泣した。

母は、その後子供を生んだが、原爆の放射能を浴びたのか生まれて3ヵ月夭折した。岡野家の歴史では、今回のことは大事件で壮絶な戦いであり、壮一郎は国家のため戦死したと思った。

このお母さんはすごい人だと筆者は深く敬意を表する。桜は散っても来年はまた咲く。だが、壮一郎桜は15歳で散り終わるなんて、なんとむごいことか、泣けて泣けてしかたない。この文を鎮魂歌として捧げる。

この4人は一生縣命生きた。へこたれずに生きた。このことを生き残ったものが伝える義務があると老骨に鞭打ち筆を走らせた。82歳。疲れた。

田中正晴(旧中38回)

田中正晴さん 本紙に手紙

せとうちタイムズ 青木悦子様

嬉しい新聞が届きました。よくぞ、この文を見つけて頂いてありがとうございました。さぞかし須山さん、平山郁夫君、岡野壮一郎君も地下で喜ぶことでしょう。鎮魂歌になります。ありがとう。

平成27年4月25日 田中正晴

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