空襲の子【2】因島空襲と青春群像 封印された空襲(上)

青木 忠
 因島に家族とともに帰って10年が経過した平成14年に入って、わたしはようやく因島空襲の調査を始めた。しかしそれは当初、わたしの個人史的色彩の強いものであった。相談を持ちかけた友人に「空襲経験はお前のプライベートな問題」といわれる始末であった。


 自分が「空襲の子」であることを知ったのは、わたしが因島市立椋浦小学校の5年生のころだと記憶している。校長であった父の松本隆雄は小学校の誕生会でわたしについて、「忠君は空襲をうけて仮死状態から生き返りました。よくここまで大きくなりました」という趣旨のお祝いの言葉を述べた。わたしは初めて知った特異な経験がとても恥ずかしくて、ただうつむいているばかりであった。これが自分の人生を決める言葉になろうとは思いもしなかった。
 父はそれ以来、空襲について話すことはなかったが、他界する数年前にわたしが父と言い争い、「自分は青木を継いだのだから松本家のことは関係ない」と悪態をついたことに対して怒りに震えた声で父は、「お前が今生きておれるのはあの時お母さんやおばあさんが身を挺して守ってくれたからだ。それを忘れるな」と言い放った。わたしは絶句した。小学生以来約40数年ぶりに父と子が交わした空襲についての会話であった。父は平成11年1月に亡くなり、それが事実上の遺言となった。
 わたしの母松本清子は空襲のダメージで身体が弱り結核を患い、盲腸炎をこじらせて昭和25年7月23日、40歳の若さで旅立った。結核ということで幼いわたしは母と別居し、祖父母に育てられた。祖母ヒサノも祖父より20年も早く昭和29年に65歳で亡くなった。
 さらに三庄町の知人から、空襲で全壊したわが家の残骸の生き埋めになった0歳のわたしを助けるのに町の人が苦労したとも聞かされた。空襲警報が何度も出されるなかでの救助活動であった。わたしは初めて、「自分は多くの人に助けられたんだ」と思い知った。同時に助けてくれた人たちにお礼のひとつも言っていないことに気付いた。だがその人たちは今、誰も生きてはいない。こうしてわたしの空襲の調査活動は、母と祖母の供養と、助け出してくれた名も知らぬ地元の人たちへの恩返しとして始まったのだった。
 空襲の調査活動をどのように始めたらよいか分っていたわけではない。とにかく記録を見たいと思ったが公式のものがないことがすぐに判明した。つまり行政に依拠できないことを初めから覚悟せざるをえなかった。
 わたしが手にしたのは3種類の記録しかなかった。西島和夫さんが自ら体験した日立造船所の空襲の証言と土生中学校1年生の調査記録「語り伝えよう因島の戦争体験」。さらに三庄老青会連合会が出版した「ふるさと三庄」に掲載された松本隆雄の証言である。のちに日立造船社史と因島市史にも数行の記述があることを知った。それぞれの調査の指針となる貴重な資料であった。
 しかし、戦後50数年も経ているのにこの資料の少なさに愕然とした。覚悟はしていたがこの少なさがわたしを発奮させた。
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平成14年の三庄町防空壕前追悼コンサート

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