「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【9】第二章 はじめての沖縄

破防法裁判の証言集が出版されたことを思い出し、インターネットを通じて古本で買い求めた。ページを開くと当時が一気に蘇ってきた。とりわけ沖縄関係の証人は思い出深い。30年もの前のことである。

国会議事堂に近接する参議院議員会館に喜屋武真栄(きゃんしんえい)議員を訪ねた。証人になってもらうためである。懇談をするなかで議員は次のように語った。

「本土で私の名前を正しく呼べなかった人が大勢いた。人の名前を間違うほど無礼なことはない」

このことは今でも鮮やかに覚えている。それ以来私は、人の名前を正しく読むことにいっそう力を入れるようになった。

沖縄の二大新聞である「琉球新報」は1997年7月16日の「喜屋武真栄さん死去」という記事に書いている。

―24年間の議会活動で常に沖縄問題の解決に取り組んできた。「ミスター沖縄」の異名を取り、一貫して反戦平和を訴えた。国会で訴えた「小指の痛みは全身の痛み」の言葉は有名。沖縄問題を象徴する言葉となった。

証人依頼のために那覇市長の平良良松氏の自宅を訪ねた。暖かく迎えられ、現職の首長としての見解を詳しく聞く機会に恵まれた。

証人のひとりである沖縄佐敷教会の平良修牧師には、沖縄戦の戦跡に案内された。当時、住民や日本兵の避難場所や野戦病院に使われた「ガマ(洞窟)」に入ったのである。

久しぶりに沖縄関係の法廷における証言を読んでみた。そのなかで沖縄原水協理事長の福地曠昭氏の証言に気持ちが動かされた。福地氏は沖縄戦の体験者であり、沖縄教職員組合の指導者として祖国復帰闘争の中心を担った。

弁護人は福地氏に問いかけた。

―教職員会は、この七二年の沖縄返還協定にかんして、「七〇年の安保闘争は事実上、この1969年11月の日米会談で終結する。この点、七〇闘争あるいは七〇年代闘争を呼号する総評や本土の革新政党の姿勢は根本的に甘い」というふうに、ある文書で述べていることを覚えていらっしゃいますか。

福地氏はすかさず「覚えています」と答えた。

当時の沖縄教職員組合の情勢認識と本土の学生運動の情勢認識は一致していたのだ。一度も討議したことも、会ったことさえないのに見事な一致である。

私は演説のなかで、次の点を強調した。

「すべては、今秋11月の日米首脳会談で決定されようとしている。その会談を阻止するには11月では遅い。11月を待たずして四・二八沖縄デーに決起して、会談ができなくなる情勢をつくりださねばならない」

私にとって破防法裁判を通じての沖縄との縁は人生上の宝である。沖縄を訪ね、滞在し、語り合うことで沖縄を感じ取る機会を与えられたのである。活字だけではとうてい得ることのできぬ貴重な体験であった。

しかし、裁判の終了とともに沖縄との別れがやってきた。

第一審有罪判決。東京地裁、一九八五年三月四日。
控訴棄却。東京高裁、一九八七年三月一六日。
上告棄却。最高裁、一九九〇年九月二八日。

1970年に始まり、21年間にわたった裁判は終った。

同時に私は一切の政治活動から身を引いた。そして、沖縄との交流も途絶えた。それは辛いことではあったが、諦めざるをえなかった。

(青木忠)

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