誇るべき修道健児4人のへこたれぬ魂「咲いた桜・散った桜」【1】

1945年8月6日に投下された原爆によって、広島市の旧制修道中学生の多くが犠牲になった。

同校の同窓会ニュース(同窓会報修道No.75、平成23年9月3日)に、田中正晴さん(当時3年生)の執筆した「誇るべき修道健児4人のへこたれぬ魂 咲いた桜・散った桜」という文章が掲載されている。

その内容は、寄宿舎で同室であった、須山徹さん、勝村達喜さん、平山郁夫さん、岡野壮一郎さんの物語である。

田中さんのご好意により全文掲載させていただく。

昔の話。修道の寄宿舎で下記のものが同室で、この物語が始まる。

田中正晴(旧中38回)

昭和19年4月8日現在 広島市南千田町 修道中学寄宿舎(敬称略)

寄宿舎舎監 妹尾萬右衛門(英語) 副舎監 菅谷林蔵(体操)

須山徹

舎監の妹尾先生がイガグリ頭の1年生を連れて須山たちの部屋をノックした。

「おう、須山君、君と同じ因島の出身の岡野だ、君の部屋に配属するので面倒をみてくれよ」「はい」須山は前もって聞いていたのですぐ判った。

「まあ入れ」「……」ぴょこんと頭を下げて何も言わない。でも利発そうに目はキラキラと輝いていた。無理もない、今朝早く暗いうちに汽車に乗り、初めて親から離れて腹は減っているし眠たいし「俺はどうなるんだろー」と不安で不安で岡野は言葉がでなかった。こうして昭和19年4月8日、この4人の人生の物語がはじまる。

最上級生の須山は、おとなしい性格で同室の下級生の面倒を良くみた。ちょっと見では怖い顔に見えたが、言葉は優しく勉強も良くできた。

戦時中は学徒動員で、兵器廠で小銃弾を造っていたが、原爆の日(8月6日月)は、前日が休日だったので、因島の実家に帰省していて運よく被爆しなかった。

だが、その後、学校の復旧作業に参加し、秋から再開した修道で学び、高知県の師範学校を出て、郷里に近い尾道で学校の先生をしていたが、生徒指導の方針で教頭とぶつかり、いさぎよく退職して、父親が川崎汽船の船長だったので、その系列の川崎製鉄千葉製鉄所に入社。

岡山、水島製鉄所の建設が始まると、その人事課で2万人に及ぶ人事の神様といわれるほど心血を注いで活躍した。

しかし定年7年前より腎臓を病み(原爆の因果関係か(月))、夜間人工透析を密かに続けながら会社を1日も休まず勤めあげた。

透析をつづけながら、左手にはウィスキーのコップを離さなかった。これもへこたれぬ修道魂か。奥さんは大変だったと思うが、内助の功でしっかりと支えて平成13年4月桜の花とともに散った。
筆者も倉敷在住なのでお会いしたが、腎臓が悪くともウィスキーを愛し、自在闊達で悠々たる心の人だった。73歳永眠。奥さん正美さんは健在。

勝村達喜

合格発表250名中4番の好成績で勝村は入学した。ちなみに1番は五領田春朗、筆者は152番。当時は成績は全部公示された。在学中も秀才組で、いつも級長をつとめていた。長身白皙、性格温厚。
3年のとき学徒動員で広島、江波、三菱広島造船所で戦時標準貨物船A型、特攻兵器回天の絞鋲部でリベットを打つ激しい重労働に耐え15歳の青春を燃やした。

昭和20年3月海軍兵学校78期生(日本海軍最後の学生)で佐世保の近くの針尾分校へ入学。海軍兵学校といえば江田島だが、当時は士官大量養成のため、針尾分校ができていた。それで幸いにも原爆には遭遇しなかった。

8月15日終戦で解散後、修道が心配で爆心地広島に入ったら、校舎はほとんど倒れ、寄宿舎は全棟ペッシャンコになって広くなった空を見上げて呆然とした。

復学して岡山六高に学び、岡山大学医学部卒。胸部心臓血管外科が専門。昭和36年心臓の毛細血管の縫合技術を米国バーモント州立大学で2年間留学して習得しプロフェッショナルとなり、医師生活20年間に1万1000人の心臓患者を救った。

今、テレビで双眼鏡のようなものや、顕微鏡を使って細い血管手術などをしているドラマを見るが、その走りである。

昭和49年川崎医科大学創設者川崎祐宜氏に請われて、川崎医科大学胸部心臓血管外科初代教授。
昭和59年付属病院長(54歳)、病院長を11年在任、「親切、無欲、剛直」の気風を植え付け、教授として学生を教え、医師として診察手術を行い、病院経営の困難、難問を解決し、倉敷ロータリークラブ会長も歴任し社会貢献に励むなど3刀流、4刀流と敏腕をふるって活躍をつづけた。

次いで、川崎医科大学の学長に就任し、次世代をになう優秀な医師を育て、医師国家試験合格率が私学であるのに常に最上位(3位)にあるなど、名声を高めた。すごい実績である。その功績が認められて山陽新聞賞(学術功労)、岡山県文化賞(学術)を授賞した。

勝村と筆者(同じ組であった)が会食したとき、弁当の蓋の裏についた飯粒を一粒、一粒丁寧に箸でつまんで勝村はゆっくりと食べた。

筆者は頭が下がった。川崎医大の学長さんが…。現在も82歳とは思えぬ若さを保ち、川崎医大顧問、川崎医学・医療福祉学振興会理事長を頭脳明晰にこなしている。

さて寄宿舎では4人が仲良く助け合って先輩後輩の絆がしっかりと培われていた。特に、寝床が隣の勝村と平山は、青雲の志と未来豊かな青春の夢を語りあって仲が良かった。

朝7時には自習時間があり登校する前に予習する、そんな真面目な生活態度であった。私学校の修道の学生はよく勉強した。

図画工作の山本四郎先生は「鬼」とあだ名される怖い厳しい先生である。平山は、その先生の宿題の絵が完成していない。宿題をサボルことなどは、真面目な平山には到底できぬ恐ろしいことだった。

見かねた隣の机の勝村が、絵のデッサン、色彩などの続きを手伝って完成させ滑り込みセーフで提出した。

『ふむー、これは良くできている』と、めったに生徒の絵を誉めたことのない鬼先生だったが、平山の天与の才がすでに輝いていたのを鬼先生が見抜いたこともすごいことだと思う。その絵は長いこと図工室に張り出されていて筆者も見た。

後年、平山は、『イヤー、あの絵は、ほとんど勝村さんが完成させたんですよー』と謙遜した。すると、勝村にも絵の才能があることになる。愉快なエピソードであり、このことは我われの間では伝説になっている。

いずれにしても勝村は、戦中、戦後をへこたれずに、たくましく咲きつづけている貴重な桜である。

(続く)

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