空襲の子【67】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 因島信用組合の創立

 巻幡は公職追放解除後、因島信用組合創立に心血を注いだ。昭和27年6月10日、初代理事長に就任し、同43年まで務めた。昭和40年には、全国中小企業団体総連合佐藤栄作名誉総裁から功労彰を授与されている。


 信用組合は19世紀中頃のドイツで生まれたと言われている。日本でもほぼ同時期に同様な組織が誕生し、明治、大正、昭和と発展した。戦後においても中小企業の資金難は深刻で、それを解決するための方策がとられた。昭和24年に成立した「中小企業等協同組合法」と「協同組合による金融事業に関する法律」によって、信用協同組合が生まれた。
 株式会社である銀行は、利益を上げることが第一の目的である。その利益は配当などで株主に還元されることになる。それに対して信用組合は利益追求を目的にした金融機関ではない。組合員の利益が最優先であるとされる。
 因島をはじめ島嶼部も例外ではなく、中小企業の倒産があいついだ。その惨状をみて巻幡は、因島信用組合の設立を決心した。相当数の組合員が集まらなければ信用組合は成立しない。必死の勧誘活動が始まった。しかし容易ではなかった。出資する事業主は、「自分らは組合にではなくあなた自身に出資するんですよ」と迫った。巻幡とその資産を信用して出資すると言うのだ。
 巻幡は家人に、「この家とすべての財産はないものと思っていてくれ。他人に損をさせて自分は生きておれない」と、決意を語ったという。巻幡は同様の心境を以前、家人に伝えたことがあった。公職追放処分になり、GHQの取調官が自宅に乗り込んで来たときのことであった。
 巻幡をよく知る人間からは、「ここまでひどい目に合わされて、なんでそこまで因島のために尽くさねばならんのだ。もっと自分のためになることをすればよいのに」と、翻意を求める声が上がった。しかし本人の決意は微動だにしなかった。因島信用組合設立の動きには強い信念が込められていた。極度の日立造船依存体質を克服し、島嶼部の経済を島嶼部の人間の力で起こしていこうというものであった。そのために全身全霊を傾けたのだった。
 巻幡は早くから、日立造船の因島からの撤退を予測していた。その予測を聞いた因島工場の労働組合関係者は当然のこと、「そんなことなどあるはずがない」と反論した。だがしかし、それから相当な年月を経て日立造船の撤退が現実化するのである。
 振り返って見れば、日立造船有明工場が操業を開始するのが、昭和48年4月のことである。巻幡が「日立撤退」の情報を入手したのはその頃かも知れない。因島をはじめ島嶼部は依然として、日立造船の全盛期に酔いしれ、それが永続化することを信じて疑わなかった。
宮沢喜一氏を囲んで
備南地区特定郵便局長会の会合。同会顧問であった、宮沢喜一(中央)と巻幡敏夫(前列右)。

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