空襲の子【64】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 初の因島市長選(上)

 時代は、第二次大戦の復興をほぼ終え、昭和の大合併へと向かっていた。因島は昭和28年5月1日、土生町、三庄町、田熊町、中庄村、大浜村、重井村、東生口村の7町村が合併して、市政を施行した。
 この合併の話は昭和26年になると国・県主導で広がり始めていた。巻幡敏夫の公職追放が解除になったのも、ちょうどその年の6月20日であった。追放になったのが22年1月のことであるから、4年半ぶりの「社会復帰」であった。


 追放解除後も監視はつづいたが、労をねぎらう訪問が相次いだ。当時、第三次吉田内閣の大蔵大臣であった友人の池田勇人は、お祝いの言葉を届けた。政界関係者もやってきた。地元の衆議院議員らもお祝いに駆けつけた。
 当時を振り返る二女恵美子さんの口から、懐かしい衆議院議員の名前が次々飛び出した。原侑、大宮伍三郎、高橋禎一、高橋等、重政誠之、永山忠則ら保守系議員、片山内閣の下で文部大臣を務めた森戸辰男議員(日本社会党)らである。
 因島市誕生が現実的な政治日程にのぼりはじめると当然、初代市長選候補者の人選が問題となった。保守系は巻幡敏夫の擁立に動いた。土生町を中心に人望もあつく政治的基盤も強固であった。
 巻幡は他人をおしのけて打って出るような人物ではなかった。適任者がいず、やむを得ないと自ら判断したときに、その任を受けて立つのが常であった。公職追放という大きな政治的ブランクがあったが、立候補を決断した。
 巻幡には胸に秘めた新生因島市の舵取りプランがあったという。その詳細は明らかにされることがなかったが、過度に企業に依存することのない、「因島の人間による新しい因島の建設」というのが基本であった。
 その対極にあったのが、日立造船が労使一体で擁立した安松延二であった。安松は前土生町長であり、同社元労組書記長であった。当然のごとく企業と労組の利害を代表した候補者であったが、陣営は革新市長候補として映しだそうとしていた。
 公示直前になって第三の候補者が現れた。尾道市で商いを営んでいた中庄村の宮地弘であった。因北地区に根強い基盤があり、商業関係者の支持を得た。突然の宮地出馬の報せは、巻幡陣営を驚かせた。巻幡自身も何かの間違いではないかと思った。
 というのは、出馬表明の数日前に宮地が、陣中見舞いのために巻幡の自宅を訪れ、懇談していったからである。巻幡陣営内で様々な憶測が流れた。宮地の出馬で因北地区の巻幡陣営は公然と選挙運動ができなくなった。巻幡を、日立造船の安松と因北の宮地があたかも挟み撃ちにするような選挙構図ができあがりつつあった。
 嵐の因島市長選挙が始まった。島内を三分割した予断を許さない、三者拮抗した大激戦になった。

若き日の巻幡進県会議員(巻幡敏夫の義弟)。たえず義兄とともにあった。右は敏夫の長女。

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