空襲の子【59】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 巻幡敏夫に追放処分(中)

巻幡敏夫が公職追放処分を受けた昭和22年1月ころ因島は、連合軍総司令部にとって特別な地域であった。日立造船因島工場が約1万人の働く軍需工場であったこと、因島と向島に連合軍捕虜収容所があり、日立造船の両工場で捕虜が強制労働についていたことである。記録によれば米軍は1945年(昭和20)から1948年(昭和23)の間、因島に調査団を送り込み、報告書を作成している。


解放されて因島三庄町折古浜で海水浴を楽しむ英軍捕虜たち

終戦直後、米占領軍にとって最大かつ緊急の課題は日本全国の捕虜収容所補給作戦をどのように展開するかであった。解放された捕虜を餓死などからどのように救出するかである。作戦遂行にあたった米軍の報告書には次のように記されている。

―1945年8月15日に日本の降伏が確認されると、連合国には、日本側の手にある戦時捕虜と抑留民間人に対し、彼らが占領軍の手で引揚げできるまでの間に、食糧、衣類、医療品を補給するという困難な仕事が提起された。多数の捕虜が日本側の収容所にいることが知られ、食糧の飢餓状態、病気、虐待の状態が報じられ、救援策を講じることが特に緊急であった。

(中略) 計画に必要な食糧と医療の補給品は、6万9000人に対して30日分の補給と考えられた。

(中略) 連合軍が課した降伏条件の一つは、日本政府が全ての戦時捕虜と抑留民間人の収容所にはっきり目立つ印をつけ、全ての収容所の名称、位置、人口の完全なリストを、連合軍総司令官に提出することであった。

8月27日から9月20日まで、1066機が作戦に参加。4470トンの補給品を投下し、6万3500人の捕虜を救出。犠牲も出た。8機を失い、77人の死傷者を出した。

日本政府は1942年4月、国内の労働力不足対策として、捕虜の一部を使役する方針を決めた。大戦期間中に開設された本所・分所・派遣所・分遣所などは130カ所あった。終戦時には分所81カ所、分遣所3カ所に3万2418人が収容されていた。終戦までに約3500人が死亡。

広島県下には御調郡向島町兼吉(現、尾道市向島町)と御調郡三庄町(現、尾道市因島三庄町)に分所があった。向島は、終戦時収容人員194人(米116、英77、加1)、収容中の死者24人。使役企業は日立造船向島工場。三庄町は、同185人(英182、米3)、死者13人。使役企業は、日立造船因島工場。

終戦後、捕虜虐待の罪で両収容所でもBC級戦犯がでた。因島では、所長、捕虜係通訳、軍属の3人。向島では収容所長と軍曹の2人がそれぞれ、重労働12年、15年の判決を受けた。

巻幡への公職追放はこうした緊張した終戦の情勢下で発令された。それは極めて強い政治性を帯びたもので、BC級戦犯と軌を一にした、みせしめとしてあった。
参考文献=「捕虜収容所補給作戦―B29部隊最後の作戦」(奥住喜重・工藤洋三・福林徹共著)。

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