空襲の子【58】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越え 巻幡敏夫に追放処分(上)

 ついに巻幡敏夫に公職追放処分が発令されるときがきた。昭和22年のことである。公職追放が解除される昭和26年6月20日まで、巻幡は連合軍総司令部(GHQ)の厳重な監視下に置かれ、一切の生活の糧を奪われた。
 巻幡自身が昭和61年に記した経歴のメモが残っている。それによると公職追放のために退職に追い込まれたのは6つの職業と役職である。


 まず代表的なものは、大正6年8月9日から務めてきた広島県土生郵便局長(特定郵便局長)で、昭和23年1月7日依願退職させられた。今でも巻幡のことを「局長さん」と呼ぶ人が少なくないという。当時の土生郵便局は、郵便機能は言うまでもなく、電信電話機能、金融機能をあわせて持つ、地域の中枢機関であった。銀行らしい銀行が因島にない時代であったから、なおさらそうであった。巻幡はそこの「城主」のように敬愛をうけており、彼自身、局長を去るときに「ついに落城か」と呟いたという。
 つづいてメモにしたがって列記すると次の通りである。土生町会議員(昭和4年5月20日から昭和22年1月31日)。土生町学務委員(昭和7年1月10日から昭和22年1月31日)。尾道税務署管内所得調査委員(昭和17年10月1日から昭和22年2月28日)。土生町参与(昭和18年8月1日から昭和22年2月28日)。備後南部特定郵便局長会長(昭和21年10月1日から昭和22年12月25日)。退職日によってほぼ追放処分発令日が推測される。
 巻幡敏夫の処分理由は何であろうか。発令文書が残っているわけではないが、土生町の大政翼賛会の会長であったことがその理由だと見られている。副会長は義弟で昭和8年から3期にわたって土生町議を務めた巻幡進、もう一人は、徳永虎吉・日立造船取締役因島造船所長(昭和18年2月から昭和21年3月)と言われている。
 しかし筆者には、戦中の役職への処分というより、敗戦・戦後直後の巻幡の活躍と微動だにしない社会的地位に対するGHQの報復処分の性格を帯びたものと思えてならない。すでに詳述したように巻幡をリーダーに町民有志は因島をはじめ近隣住民存亡の危機の到来に直面し決起した。ただちに上京、5日間にわたりGHQと直談判し、ついに日立造船因島工場の賠償指定解除を引き出した。この行動はGHQに、「巻幡恐るべし」と印象付ける結果となった。動あれば反動ありである。
 さらに巻幡は戦中・敗戦・戦後の混乱期に、誰の隔てもなく世話をやいた。次々と相談に巻幡家を訪れる町民の話を聞き、救済のために私財を投げうった。それがますます彼の人望を高めた。戦前からのつづく社会的位置はいっそう不動のものになり始めていた。この傾向は「軍国主義排除」の名のもとに進められる占領政策にとって危険となりつつあった。とりわけ英軍捕虜収容所のあった因島は占領軍にとって特別な地域でもあった。

当時、土生郵便局は日立造船因島工場西門わきにあった。

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