空襲の子【56】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 吹き荒れる追放の嵐

 昭和21年の年明け早々、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による公職追放の嵐が吹き荒れることになった。ポツダム宣言第六項の「軍国主義者の権力および勢力を永久に排除する」方針をもとに1月4日、日本政府に対して「軍国主義指導者」の職場からの追放を指示した。


 これをうけた政府は2月28日に公職追放令、5月7日に教職員追放令、12月に労働追放令を出した。公職追放令にいう公職とは、たんに官職だけではなく、占領軍が指定した、影響力のある政党・企業・団体・報道機関などの重要な役職のことを指していた。
 昭和22年1月14日に公職追放令は改正され、地方議員・市町村長・マスコミ関係者・有力企業幹部・追放者の3親等など地方政界・言論界・経済界に範囲が広がった。最終的に約21万人が職場から追放された。閣僚(幣原内閣の5閣僚)や政党幹部・与党進歩党議員なども、次々追放された。企業も戦前からの経営者が追放された。
 つづいて、労働運動の激化や朝鮮戦争の勃発などの社会情勢に伴いGHQの占領政策は転換し、公職追放の対象は共産主義者へと移っていった。昭和25年6月に共産党中央委員24人が公職追放になった。いわゆるレッド・パージである。
 ところで公職追放は、「軍国主義者の追放」の名の下に、占領政策の遂行のために恣意的・政治的に利用された傾向が見てとれる。追放の代表的な事例を見ながら、検討していこう。
 その代表例は、後に内閣総理大臣に就任する石橋湛山の場合である。戦前からの東洋経済新報社主宰を理由として、大蔵大臣在任中の昭和22年に公職追放となった。戦時中も一貫して軍部を批判しつづけた石橋の処分については厳しい批判の声が集中した。石橋が反GHQの姿勢をとりつづけ、名声を高めていることに対する吉田茂の策略ではないかという憶測もとんだ。
 内閣総理大臣就任直前であった鳩山一郎の追放の場合も物議をかもした。昭和21年4月、戦後初の総選挙が実施され、自由党が第一党となり、鳩山一郎が次期首相候補になった。しかし5月3日、「戦前の翼賛議員排除」を理由に公職追放が鳩山にも発令された。翌日、大命降下を待っていた鳩山のもとにそれが届けられた。側近であった安藤正純はその日の日誌に、予想外の追放令に驚愕し、狼狽する鳩山陣営の様子が記されている。
元内閣総理大臣 鳩山一郎
元内閣総理大臣 鳩山一郎
 ほかに政治家には、後に農林大臣などを歴任する赤城宗徳、後に衆議院議長を務める石井光次郎。婦人運動家、参議院議員として有名な市川房枝、羽田孜元首相の父である羽田武嗣郎などがいる。
 言論界では、講談社「少年倶楽部」編集長・加藤謙一、読売新聞社長・正力松太郎、思想家・徳富蘇峰、大阪新聞社長・前田久吉、思想家・安岡正篤。映画の特撮監督の円谷英二も、戦意高揚映画の特撮監督をしていたことを理由に追放になり、東宝を退職した。東大法学部教授(刑法)・小野誠一郎も追放された。
 経済界はどうか。王子製紙社長・足立正、三井物産取締役・石田礼助、実業家・二代目伊東忠兵衛、住友の6代目総理事・小倉正恒、日立製作所社長・小平浪平、東急電鉄社長・五島慶太、松下電器産業社長・松下幸之助らである。

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