空襲の子【48】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて 総力戦と大政翼賛会(上)

 戦後日本は、「大政翼賛会」を「民主主義」の対立概念として教えたが、その内容とその歴史的役割の検証を真剣にしようとはしなかった。筆者自身も例外ではなく、せいぜい大政翼賛会=独裁、独裁=悪ぐらいの理解のレベルであった。しかしこれでは、太平洋戦争―第二次世界大戦への理解が表層的なものにしかならないのではないか、と思う。


 そう言えば高校時代、戦争当時盛んに歌われた「隣組」のレコードをわが家で聴いた覚えがある。2階は言わば解放区で、自分が生まれる前の物を探す秘密の遊びを楽しんでいた。愛知県の専門学校に通っていた兄が組み立てた電蓄(プレイヤー)にかけてみた。軽やかなメロディだった。私の翼賛会のイメージはこの曲である。

トントントンカラリととなり組/地震.雷、火事.泥棒/たがひに役立つ用心棒/助けられたり、助けたり

 歌ってみると歌えた。きっと何回もかけて覚えて口ずさんでいたのだろう。人類はついに、軍事・経済・政治・文化など国家の総力をあげて、国民を残らず総動員する総力戦として戦争を遂行するにいたった。その最初が第一次世界大戦(1914~18)である。長期化し、膨大な消耗戦となり、世界をも巻き込んだ。
 第二次世界大戦にいたっては、原爆をはじめありとあらゆる悪魔の兵器が使用された。訓練された軍隊同志の戦闘とは異なり、非武装の国民が無差別に殺戮された。そうしたなかで生まれた運動組織体が大政翼賛会であった。「戦後史大辞典」(三省堂)にそって見てみよう。
 1940年(昭和15)の新体制運動の下で、政党をはじめ自主的団体が解散した後に、同年10月に結成された国民総動員運動の中核組織。スローガンは「大政翼賛・臣道実践」。総裁は首相、支部長は知事が兼任するようになった。
 1942年5月、大日本産業報国会など有力6団体が翼賛会に参加し、8月に内務省の統制下にあった部落会・町内会がその末端に編入された。さらに1945年6月、本土決戦準備のために組織された国民義勇隊に解消をとげた。
 広島県の実情について「広島県戦災史」にそって見てみよう。大政翼賛会の結成に合わせて政党は、先を争って解党し、新体制への参入をはかった。県レベルにおいても政党各組織が解散し、県会の各会派も解散した。昭和15年12月8日、県会議事堂で県支部結成式を行なった。
 つづいて郡市町村支部の組織化が始まった。町村支部の役員の人選は町村長が行なった。例えば、佐伯郡宮内村(廿日市町)では、小学校長(48歳)、警防団長(宮島物産・46歳)、在郷軍人分会長(醤油醸造・43歳)、陸軍中尉(材木卸商・40歳)、農会長(59歳)の5人が推薦された。
 また政党だけではなく労働組合も次々解散していった。昭和15年8月11日の因島労働組合の解散をもって県内の労働組合は消滅。これに変って産業報国運動が登場した。

大政翼賛会広島県支部のポスター

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