空襲の子【45】因島空襲と青春群像-巻幡家の昭和-公職追放を越えて はじめに

 ある「紳士録」に故巻幡敏夫氏とその家族について次のように記されている。

  • 巻幡敏夫 正七位勲六等 因島信用組合 備南特定郵便局長会各顧問 広島地方裁判所因島調停協会会長 因島市文化財保護委員 広島県出身 因島市在住 明治31年7月8日広島県広太郎ム子の長男に生る
  • 妻 ミツノ 明治34・3・21生、巻幡仙五郎三女、広島女学院卒
  • 長男 展男 昭和5・2・6生、阪大法科卒、関西テレビ放送企画調査局次長
  • 長女 早苗(大正11・1・1生、京都女専家庭科卒)は山本一登(医師)に
  • 二女・恵美子(大正14・1・5生、広島女学院大専門部卒)は天本藤明(日本海事協会主任技師)に嫁す

 現在、因島土生町の屋敷は二女・恵美子さんが守っておられる。弟の展男氏は関西テレビ放送名誉顧問である。

昭和3年頃の巻幡家の居間


 巻幡敏夫氏の歩んだ昭和史は波乱万丈であった。時代の真っ只中を突き進んだ傑出した人物である。旧制忠海中学校に進学。そこで後の第58~60代内閣総理大臣池田勇人に出会い、無二の親友になり、ともに上京し道を共にすることを誘われた。しかし巻幡は、その申し入れを受け入れるわけにはいかなかった。家業である土生郵便局を継ぐことを、好むと好まざるとにかかわらず選択せざるをえなかった。
 当時の郵便局の役割はそれだけ重いものであり、現在のそれと大きく違っていた。郵便機能だけでなく、電信電話機能、金融機能などをすべてもつオールマイティなものであった。そのころ因島には銀行はなかった。
 ところが皮肉にもこの選択は、巻幡をいっそう時代の激流に引きずり込む結果となったのである。郵便局事業での実績をつむにつれて、巻幡の社会的位置は不動にものになっていった。同時にその過程は、太平洋戦争開戦に向かう時代の進行と重なり合った。
 やがて国民総動員体制が敷かれ、内閣総理大臣を会長とする大政翼賛会が発足した。巻幡は土生町の会長に指名され、受けた。因島のなかでの土生町の位置は重く、そこのリーダーの影響力は大きかった。しかも彼の性格故か、国のために私を捨て、多くの住民の相談にのり、私財を惜しまず投入して世話をやいた。
 敗戦の時がやってきた。同時に因島や近隣島嶼部に重大事態が起きた。米国司令部から日立造船因島工場が賠償工場に指定された。戦争被害を受けた国への賠償に当てるというのだ。それは日立造船因島工場を潰すことを意味する。土生町参与でもあった巻幡らは上京し、命がけの交渉に入った。そして賠償指定は解除となった。
 しかし今度は、公職追放処分が巻幡を襲った。大政翼賛会の幹部であったことがその理由であった。因島でただ一人であった。因島地域での戦争指導責任を問われたのである。大正6年から務めてきた土生郵便局長の職をはじめ、すべての公職から追われた。
 追放解除になる昭和26年6月20日まで、仕事らしい仕事につくことを封じられた。生活の糧を得る道さえ奪われた。しかし巻幡は、その処分を敢えて受けた。一切の弁明もしようとしなかった。解除の日が来る日をただじっと待つだけであった。

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