戦後62年目にして平和の祈り 因島空襲犠牲者慰霊祭 市営駐車場 多目的ホール

因島が2度目の空襲を受け、日立造船因島工場や三庄町で多くの犠牲者がでた63回目の7月28日がめぐってこようとしている。

資料によれば、米空軍は昭和20年7月28日午前11時45分から7分間にわたって空爆。最新の調査の結果では、土生町の日立造船工場内において、100人をはるかに超す従業員や軍人、三庄町7区・8区において17人の犠牲者が出たことが明らかになっている。

そうしたなかで今年は、その時間に合わせて初めての空襲犠牲者慰霊祭が土生町の市営中央駐車場コミュニティ施設で行う計画が進んでいる。主催は因島の住民有志による実行委員会(尾道市因島椋浦町272・電話FAX0845-22-7135青木忠)。遺族、空襲の被害者・体験者、住民ら数百人が島内外からの参加を予定している。

慰霊の対象は、3月19日と7月28日の2回にわたる因島空襲で犠牲となった民間を含めたすべての犠牲者と、同時期に三庄町8区にあった捕虜収容所で病死したイギリス兵13人とされている。

慰霊なき戦後

太平洋戦争末期の県下では、米軍の空襲は、広島、呉、福山、因島の4カ所に対して行われた。広島市は人類史上初の原爆投下である。呉は6度にわたって攻撃され、とりわけ7月1日から2日にかけての市街地への空襲では1949人の死者がでた。福山は6月から空襲がはじまり8月8日焼夷弾攻撃で354人の犠牲者がでた。

因島に対する空爆は、呉への攻撃と結合して行われた。軍需工場であった日立造船因島工場を中心に2度にわたり攻撃が加えられ、多くの犠牲者を出した。公開された日本本土空襲作戦記録にも「因島ドックヤード」と明記され、攻撃目標に設定されていたことがうかがえる。

ところで因島が他地域とくらべて対照的なのは、被害の実態への調査や慰霊の営みが行なわれてないことである。8月6日の広島市祈念式典、8月8日の原爆・福山戦災慰霊式典があり、呉市は7月1日空襲記念日に設定し、市民に黙祷を呼びかけている。住民有志はそれぞれの地域、グループで慰霊行事を行なっている。

昭和年に発行された因島市史は因島空襲について「第四編 経済 日立造船因島工場」のところで、「しかし第二次大戦中米軍の爆撃にあい、多くの施設を破壊されたが、鋭意回復、整備、今日に至ったものである」としか記述していない。

「あとがき」は、「近世・近代・現代に、もの足りなさのあることを、自分でも感じる。惜しいけれども近代資料が少ない。敗戦のさい、どこの自治体でも、多くの書類を整理した。マッカーサーの進駐に気をつかったからである。さらに引きつづいて、合併である」と釈明している。そして「またあとで、誰かに書き足してもらはねばならぬことを信じて、筆をおいた」と述べたが、因島市史の続編が発行されることは決してなかった。

因島空襲が歴史的事件であった。しかし、それから目を背けることで戦後の復興をめざした。多くの犠牲者は忘れられた。犠牲者の慰霊なき戦後は、戦争を忘れ去ることができた者と、忘れ去ることのできない者というふたつの流れを作り出した。さらに近代日本において絶えず時代とともに歩んできたという島の誇りを失う過程でもあった。

太平洋戦争としての因島空襲の歴史を真正面からとらえなおし乗り越え、新しい充実した時代を模索する時ではないだろうか。空襲の町こそその資格を与えられていると言える。

(青木忠)

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