「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【3】第一章 もうひとつの甲子園

私が大学に入学したころすでに沖縄では、祖国復帰運動が高まっていた。しかしそのことに関心を持つことはなかった。学生運動を開始し、政治や社会問題に目覚めても、沖縄で島をあげて巻き起こっている運動の意味が理解できなかった。

しかし、誰が見てもベトナム戦争や日米安保同盟の中心には沖縄問題があった。沖縄の人たちの闘いに呼応して闘うことが不可欠であった。本土における沖縄闘争の高揚こそが求められていた。

1968年11月7日。本土の学生運動はようやく、首都東京において沖縄闘争に決起した。政府中枢直下の日比谷野外音楽堂で決起集会を行い、霞ヶ関から銀座へ、そして東京駅のコースで激しいデモ行進を行った。

興奮が冷めやらないなか東京駅八重洲口で解散集会を開き、私はマイクを手に取った。五分ぐらい演説しただろうか。語るうちに想いはあの甲子園に飛んだ。

「みんなどうだろうか。沖縄の人たちは島をあげて闘いに決起している。そうしたなかで、本土で学ぶわれわれ学生たちは何をなすべきなのか。甲子園にやってくる沖縄の球児たちに本土側は、拍手でもって迎えてきた。だけど、そうすることだけでよいのだろうか」

あの時、球場であれほどの拍手と歓声があがったにもかかわらず、首里高校野球部員は大切に集めた「甲子園の土」を沖縄の母校に持ち帰ることはできなった。私は、そのことを言いたかったのである。

これは私の実感だった。沖縄に一度も訪れたことのない私である。沖縄に住む人たちに会ったことも語ったこともない。心の繋がる言葉を縣命に捜していた。

中学2年の夏。甲子園の首里高校。私にとって唯一の青春の「沖縄体験」であった。私は、ここに立ち返ることで、沖縄問題が他人事ではない、自分自身のことのように思えた。中学2年の球児の心に戻ることで、遥かなる沖縄の人たちの悲しみや苦しみに少しでも近づきたかった。

沖縄の人たちが主張する、沖縄ならではの基地や核の問題は比較的容易に理解できた。しかし、一番肝心な「祖国復帰」という願いをどのように受け止めるかという点に苦しんだ。そのスローガンにどのような想いが込められているのか。

もともと「祖国」という実感などない世代である。そればかりか、日本の現状をつまらないとさえ感じており、「こんな日本に復帰してどんな意味があるのだろうか」という具合であった。

そうした迷いを晴らす切り口になったのが、中学2年の野球を通じた「沖縄体験」であった。あの時、「甲子園の土」を那覇港の海に捨て去られた首里高校球児は何を思っただろうか。どんなに情けなく、悔しかったことだろう。パスポートが無ければ本土との間を行きかうこともできないのである。

本来、学生運動における演説において、高校野球の甲子園のことを喋ることなどあり得ないことだ。しかしその日は、あえてそのことを語った。そうしなければ私の想いが学生たちに伝わらないと思ったからだ。

その集会現場にいた、年上のリーダーが私に駆け寄ってきて、

「すごく良かったよ」

笑顔で目を輝かせて言った。

数百人いただろうか。解散集会の学生たちも高揚しているように思えた。

その日からおよそ半年後私は、自らの人生を確定させた大闘争に立ち上がるのである。

(青木忠)

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