「始まりと終りに」故仲宗根一家に捧ぐ【1】序章

「始まりと終りに」。「始まり」は人生の始まり、「終り」は人生の終りのことである。

ところで私は、自分の人生の始まりは二度あると思っている。いうまでもなく一度目は、誕生した昭和19年10月11日である。松本隆雄と清子の3男、5人の子供の末っ子として生まれた。

2度目は、生後10カ月で仮死状態から生還した時である。空襲で全壊した家屋の下敷きになり、私は一旦死んだのである。そして生まれ直したのである。昭和20年7月28日のことである。

ここで言う、私の「始まり」とは2度目の生まれ直しのことを指している。この出来事が私の人生を決定づけたと言っても過言ではない。そのように断定したら、私の歩んできた起伏に富んだ人生は実に分りやすく説明がつくのである。

ところで2度目の誕生は、隣家に住む、沖縄から疎開してきた仲宗根家6人の死亡と同時であった。その日、アメリカ軍が投下した一つの爆弾は、私の生家と隣の2軒を直撃した。そして、仲宗根家の母と10歳の姉を筆頭とする5人の子供、さらに私を加えた7人が死んだ。そのなかで私だけが蘇生した。仲宗根家の死はすなわち私の生だったと言えるのである。

しかし私は、この事実を自覚することなく成長していった。これを決定的に知るのは、60数年後の平成21年(2009年)2月のことである。ちょうどその頃私は、様々な人生経験を回想するなかで、己の人生を確定づけたのは沖縄問題との関わりであったという総括をしていたところであった。

しばらくして、私の全身に衝撃が走った。

「そういうことってあるのか。自分は生まれながらにして沖縄との関わりで生きてきたのか」

私の心は激しく揺れ動いた。

一歳未満での体験が、嬰児にすぎない私にどれほどの影響を与えたのか。地元の小学校教師であった父には、仲宗根家の子供たちとかなり深い関係があったはずだ。優しい女であったと評判の母清子が、何かと仲宗根家の世話を焼いたのではないか。

私の長姉は仲宗根家の長女と同級生で、今でもその風貌を覚えていると言う。何しろ隣近所である。母に抱かれた私も仲宗根家の何人かと会っているに違いない。

空襲直後、仲宗根家の受難が我が家で話題にのぼったのではないか。身内の誰一人も死ななかった幸に安堵しながら、隣家の悲劇に無関心でおれただろうか。家内での会話が赤子の私に届くことはなかったのか。

同じ爆弾で私を含めた七人が死んだ際に、まさに瞬時であっただろうが、死んだ者同士しか感じ得ない、共通の感覚が走ったのでないかと思えてならない。生と死に別れることになった仲宗根家の一人ひとりと私を結びつける何かが残ったのではないか。

私の沖縄への目覚めの始まりは、中学校2年13歳の夏のことである。野球少年だった私は、大好きな野球を通して沖縄が日本と分離されてアメリカ支配下にあることを強く知ることになった。

昭和33年夏の甲子園球場に沖縄の首里高校球児の姿があった。観覧席の至るところから嵐のような拍手が湧き起こり、彼らを迎えた。

私は心を熱くし、テレビのブラウン管にくぎ付けになった。

(青木忠)

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