空襲の子【35】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 楠見三兄弟の死(中)

 日本郵船社員の佃慶三郎の話はつづく。
―父の戦死の知らせとほとんど同時に男児が誕生した事の奇しき因縁について、町では暫く話題となっていたといわれる。母堂に続いて、祖母、次兄も挨拶に顔を見せたが、だれもが佃を困らせるような質問はしなかった。万事承知しているという態度であった。


 楠見松之丞の父は大正七年に病没し、それ以後母は四人の男の子を育てて来た。祖父は根っからの船乗りで生涯を海に生きた人で、数隻の帆船を所有し、自らもその一隻の船長となって航海に出ていたが、周防灘で難破して行方不明となった。
 松之丞が祖父に続いて海で遭難して行方不明となったので、一家に三人の未亡人が同居する事になったわけだが、母堂も祖母もその事を少しも苦にする様子もなく、「松之丞が祖父に続いて海で戦死してくれました事は、却って肩身が広くなったような気持ちです」と語ってくれた。
 佃は楠見三機(三等機関士)の祭壇に会社からの香典を供え、黙祷をささげると静かに楠見家を辞したが、辞去に際してはわざわざ4キロの道を田熊港まで家人に見送られた。
 佃は再び尾道行きの連絡船に乗った。そして自分が楠見家を訪ねる道中、いろいろと心配していた事が全く杞憂であった事にほっとしながらも、少しの乱れも見せなかった船員の家族と、そして戦争が続く間、これから多くの船員の家で起きるであろうこうした不幸を思いながら、暫くは船の振動に身を任せていた。暮れ近い夕日は瀬戸の海を美しい朱に染めて、この海の続く果てに香取丸が撃沈させられた血なまぐさい戦争が起こっているとは思えないような美しさであった。
 香取丸はもともと、欧州航路の花形客船として就航した。しかし、昭和16年10月陸軍徴傭船として宇品に回航されてから様相は一変した。
 11月25日宇品を出帆、12月2日香港西方の虎門に入港。ここで歩兵第百二十四連隊の主力が乗船。さらに南進し、カムラン湾に近づいたころ、真珠湾の戦果が発表され、船内は湧いた。
 12月23日午後9時ごろ英領ボルネオのクチン沖に着き、暫く仮泊していた。午後10時半過ぎ、後部マスト直下に突然魚雷を受けたのだ。
 香取丸は煙突を五分の一ほど海面に残してその場に沈没した。味方の第三、第六号掃海艇や駆逐艦狭霧、白雲がただちに救助にあたったが、首席三機楠見松之丞、船医板倉慶房、機関士助手森長吉ら10人は行方不明になった。生存者130人は昭和17年1月16日宇品に帰還した。
 昭和18年3月17日、広島市宇品において行なわれた日本郵船の第一回慰霊祭において、楠見松之丞以下10人は続いて遭難した佐渡丸、笹子丸の犠牲者とともに合祀された。
 写真は全町あげて応召兵を送るために塩浜の海岸にでた三庄町民。(岡本馨氏蔵)

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