英軍捕虜は何を見たか【14】第三章 因島大空襲

ケリー氏の記述にあるように捕虜収容所も攻撃された。それは無理のないことであった。収容所は三庄工場に連なる造船所の敷地に建てられており、しかも工場の岸壁と同様に海に面していた。

その日、工場とそれをとりまく居住地帯が爆弾と機銃掃射の攻撃にさらされた。岸壁に繋がれた艦船と上陸用舟艇は激しく攻められた。

投下された爆弾は、建物を破壊するだけではなく、その土台の石などを空高く舞い上げた。当然にもそれらは地上に落下し、人を襲った。私が調べたかぎりでも、ふたりの婦人がその犠牲になった。収容所の屋根を貫通したのもそれらの石であろう。

岸壁に停泊している船舶を狙った攻撃は、ケリー氏の表現によれば「小さな津波」を発生させ、高波となって収容所を襲った。

ケリー氏は爆撃の終了後を次のように描写している。

その日は混沌としていた。島全体が非常に神経質な状態であった。停電の状態で、頻繁に警報が発令され、修羅場を片付ける作業を絶えず中断させた。事態を悪化させたことには、井戸とポンプ場の両方が作動しなくなり、われわれの水補給が妨げられた。

しかし爆撃の結果、思わぬめぐみがあったと言う。

しかし、ひとつ慰めになることがあった。いまや食糧は破滅的に少量になっていて、夕食は2、3個の小さなジャガイモと貧しいスープだけになっていた。

ところが、爆弾で多数の魚が気絶し、なかには数ポンドのものもいた。日本軍側は自分の問題であまりに動転しており、われわれ捕虜が海水に入り、喘いでいる魚を獲るのを止める手間をかけることはしなかった。

1ポンドを500グラムとすれば数ポンド級の魚は、かなりの大物である。無数の魚が浮いていたと、対岸の弓削島に当時住んでいた人に聞いたことがある。大勢の住民がそれを掴みに行ったという。土生の造船所も同様の状況であった。

7月28日空襲を体験することでケリー氏は、日本が戦争に負けたことを確信した。

―人は、これらの出来事が収容所側を激怒させ、われわれに復讐するだろうと想像したかも知れなかった。私には、彼らがそうしたという思い出はない。おそらく、因島において最も好戦的な愛国主義者にさえ、7月28日の空襲が、日本は戦争に敗北したことを明らかにしたからである。

ケリー氏は、英軍捕虜というギリギリの立場から戦局を分析している。

戦争の趨勢が変わった時、長くかかってもわれわれが戦争に勝つだろうということが、われわれにとっても明らかになった。数人の日本人はこう言うのが常だった。ふたつの選択肢しかないのに、われわれ捕虜が愉快そうな、快活な様子でいられる理由はない。

第一に、もし彼らが勝てば、われわれ捕虜は一生、土生ドックで働くことになるだろう。第二に、彼らが負ければ、その場合にはわれわれは壁を背にして並ばされ、アメリカ軍の手に渡る前に銃殺される。

これは脅しではなく事実だったと言う。収容所にいた英軍捕虜たちは、日本側からすれば「人質」だったのかも知れない。

(青木忠)

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