英軍捕虜は何を見たか【13】第三章 因島大空襲

ケリー氏の7月28日空襲の記述は、土生工場から三庄町の捕虜収容所の場面に変わる。著作の58ページに、連合軍が終戦直後に航空機から撮影した収容所の写真を掲載している。

それには、収容所の全景、さらに後方に三庄工場と三庄町神田の居住区が写っている。建物の屋根には、捕虜収容所を意味するマーク「PW」がペンキで記されている。プリズナー(囚人)のP、ウォー(戦争)のWである。そのマークは日本の降伏後、連合軍の指令によってつけさせられたものである。

―等しく注目すべき事実は、われわれの収容所(明らかに三庄造船所の付属物と間違えられた)が攻撃されたが、死傷者はでなかった、ということである。58ページの写真は、収容所の損害だけではなく、道を渡った一軒家をほぼ完全に破壊したことを示している。

この写真の事実について捕虜の間で議論になった。

―いくつかの意見の相違があった。空襲による損害なのか、それとも戦後、われわれ捕虜のために五十ガロン入りの石油缶数個に詰めた食糧、衣類、衣料品などの援助物資がパラシュート投下された際に、目標から外れたものか。

私自身の観点(コックスヘッドの日記と一致する)は、爆撃によって起きたというものだ。それに反して、プライス空軍軍曹の所持している日記は、援助物資の落下によるものだと断言している。数点にわたって彼と議論したことがある。

もし仮に、それが援助物資の落下によるものであれば次のことが言える。一軒家が簡単に破壊され得たという事実は、日本の建造物の壊れやすさの最も分りやすい証拠を提示し、砲火や爆弾によって引き起こされた破壊が何故恐ろしいものかの説明を提示している。

家の中にいた、ひとりの女性と2人の子供が死んだ。そして再建と復興のための募金が収容所で集められた。

収容所の損害と、一軒家にいた女性と子供たちの死亡が空襲によって引き起こされたものであることは明白である。調査の聞き取りによって完全に裏付けられている。

ケリー氏は、「再建と復興のための募金が収容所で集められた」と記している。戦時下の英軍捕虜と付近住民との人間味溢れるエピソードと言えよう。

さらに三庄爆撃の被害の描写がつづく。

―爆発自身のことにもどる。爆弾の一発が、収容所をまたいで海中で爆発し、奉仕団が到着する以前にわれわれ捕虜がいた平屋の小屋を、ひどく破壊した。他の爆弾が木材置場と三庄造船所の機械修理工場をひどく破壊した。

写真は、日本軍司令部だった建物の屋根が、戦後、航空機による捕虜支援物資投下を容易にするためにPWと記された様子を示す。

収容所もかなりの損害を受けた。「因島の空襲は、捕虜収容所を避けて行なわれた」という俗説が流布されたようだが、事実は正反対であった。

―容易に想像されるとおり、収容所のいたるところが、瓦礫や残骸でひどく乱雑であった。うすっぺらな屋根には大岩がぶち当たって、下の床まで突き抜けた結果、屋根に大穴が空き、一方、海中への爆弾投下により起きた、海からの小さな津波があたりをさらって、ただでさえ貧弱なスミシーの野菜畑に損害を与えた。

爆撃で空高く舞い上がった大きな石が、容赦なく収容所の屋根に落下した。収容所の目の前は海だった。

(青木忠)

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