英軍捕虜は何を見たか【10】第三章 因島大空襲

いよいよケリー氏の記述は、7月28日の因島大空襲に移った。その書き出しは、「最後の、そして最も劇的な出来事は7月28日である」というものである。捕虜としてのその日の空襲体験を彼がどのように語るか、翻訳の段階から興味津々であった。

記述の始まりは、三庄の場面だ。

すでに語ったように土生造船所から離れたところの三庄町に、収容所と近接して小さな造船所があった。主ドック(注―土生工場)へ向かう道路の海側、おそらく主ドックから半マイルほどのところに、家老渡(注―三庄町九区)の鋳物工場があった。

大戦時の因島における日立造船は、土生町にメインの大工場、三庄町家老渡に鋳物工場、同町神田に三庄分工場があった。そして捕虜収容所は、三庄分工場に連なる形で建てられていた。

そして、捕虜たちおよそ200人が3つの工場で強制労働に就いていた。

小さな班が時おり、三庄造船所で働いていた。そして軽作業の男たちが、鋳物をはずす仕事のために家老渡へ送られた。その当時私は、とりわけひどい、両足の甲と裏に広がった水虫の発症に耐えていた。ほとんど歩けないので後者の班に入れられた。

三庄工場への攻撃が始まった。ケリー氏は、収容所にいてその有様を見ていた。

この日の朝、午前6時頃、振動音がした。そして艦載機(空母から飛び立つ機)が接近中という情報をラジオが放送した。初めて我々は、収容所にいるようにと命令された。

数分後、その時私は、時々洗濯物を干す木材置場にいたのだが、多くの戦闘機――グラマンやアヴェンジャーが現れ、これ見よがしに、とても低く旋回し、三庄工場攻撃のために散開した。私は、リングサイドの椅子で、半マイルも離れていない目標への攻撃を楽しんでいた。それは短時間であったが、私を興奮させる急襲であった。

攻撃機からの機関砲や機関銃、複数の艦船や砲座からの集中砲火によるすさまじい音が直に聞こえた。たまたま、三庄沖に停泊していた2隻の上陸用舟艇があって、効果的とは言えないまでも、かなり反撃した。そのため、2隻がいない通常の場合より激しい攻撃となった。戦闘機は損害をほとんど与えぬまま飛び去った。

場面は家老渡工場に変わる。ここが激しく攻撃された。ケリー氏はここにいた。

警報が解除された時、我々は集合させられ、仕事に行かされた。我々は仕事に――軽作業の者たちは家老渡の門口での鋳物はずしへと行かされた。やがて土間に心地よく座り、注意深く鋳物をはずし、常識的と思える程度にその大方を砕いた。

午前中遅く、再び振動音がした。しかし家老渡の幹部たちは防空壕に入るように指示をしなかった。捕虜や日本人はみんな不安に思いながら作業をつづけた。

今度は一瞬の警報もなかった。鋳造するハンマーを削る音しかしない。工場は静かだった。次は大騒ぎになった。飛行機のエンジンの鋭い音、機関銃のダダダッという音、大砲のドシンという音、爆弾が落ちるヒューという音。

我々がその内部に座っていた建物(航空機の格納庫に非常によく似ていた)から何も見えなかった。捕虜、日本人ともちょっとしたパニックになり、両者とも外に出ようと走った。私は、一緒に働いていた者たちがどうなったのか、分らない。皆同じことを考えていた。外に出て、何か爆弾から護ってくれる物を見つけようということだった。

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