英軍捕虜は何を見たか【9】第二章 初めての空襲

6月23日に因島の造船所に飛来した連合国側の戦闘機の群れは、最終的にどこに向かったのか。その前日の22日、B29は呉海軍工廠造兵部を攻撃し壊滅させている。これとの関連はあるのだろうか。

それにしても、5月5日や6月23日の事態は因島の造船関係者を恐怖の只中にたたきこんだに違いない。実際に攻撃がなかったとしても、空襲があったに等しい効果があったと見なければならないだろう。

このあたりのケリー氏の記述を読んで私は、空襲についての理解における未熟さを思い知った。私は空襲があったとされる3月19日と7月28日に何が起きたか――そのことしか関心を持たなかった。もちろん、その日のことは決定的に重要なことだが、空襲情勢全体を把握する努力をすべきだったのだ。

ここで言う空襲情勢とは、空襲が避けられなくなった1945年冒頭から敗戦の8月15日の期間のことである。

同じ工場で働いていた日本人造船工と英軍捕虜の空襲への対応が全く異なることに気付く。
日本人は「無分別に与えられた指示に従い、怯えたうさぎのように防空壕に出たり入ったり」していた。それに対して捕虜たちは、「何事も見逃すまいと、注意をしながら、ほとんどの者が外にいたり、洞窟入口近くなどでとどまっていた」のである。そうであるから、ケリー氏の描写がどうしてここまでリアルであるのか、うなずけるのである。彼らは実際に、日本人よりはるかに多くを目撃したのだ。

このあたりの状況の一部が、県立因島高校の創立70周年記念誌での座談会「あの日・あの頃、島の乙女たちは」に出てくる。日立造船三庄工場に動員されていた土生高等女学校の生徒の空襲体験が語られている。

三庄で爆撃を受けました時、両親は死んで帰ると思っていましてね。私が帰ったら「お化けが帰って来た。」いうて泣くんですよ。警戒警報だったのに、いきなり爆弾を落とされて、千守(注―三庄町一区)の方からよく見えたんですね。

防空壕に入って本を読んでいた人が、1年先輩だったと思いますけど、爆風で奥の方へ吹き飛ばされて本がバリッと裂けたようになっていました。

爆撃されているのに、外国人の捕虜が「味方が来た。」というて外へ出るんですね。「あの人たちがあんなことをするから生徒たちが危険だ。」いうて前保先生(注―動員生徒の引率教諭)心配されましてね。学徒動員で旋盤を使いましたけど、苦しかったです。暑くて。

捕虜たちが防空壕から、入口の扉を開けて出て行ったのであろう。入口が開いたまま爆風に襲われたら壕の中にいる者はひとたまりもなかったはずだ。

空襲に対する反撃の手段を有していない日本人たちが、いち早く防空壕に避難し、わが身の安全を確保するのは当然のことで、なすべきことはそれしかありえない。

しかし英軍捕虜たちは、対照的な対応をしている。彼らは、「心臓をドキドキさせながら、落ちてくる爆弾がたてるヒューっという音が聞こえたらすぐ、その音とともに洞窟内に身を投じる用意をして、洞窟の入口から上空を見つめ、待った」。

日本人は言うまでもないことだが、爆弾投下のないことを願った。だがしかし捕虜たちは、自らも危険にさらされていることを充分に自覚しながら、爆弾投下を今か今かと待ち望んでいたのである。

こうした特異な光景こそ、因島の空襲の特徴のひとつと言わねばなるまい。

(青木忠)

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