芸予に残る被爆犠牲者の足跡【6】

終戦70周年記念特集 弓削商船高等専門学校学芸部の調査・研究
芸予に残る被爆犠牲者の足跡【6】

商船学科 濱本桂太(4年)、森光勇介(4年)、滝川鉄也(3年)

続・赤尾四郎さんの話

尾道駅には夜9時過ぎに到着。因島への便船はすでに無く、駅前の桟橋で一夜を明かす事にした。その夜11時ごろ、空襲警報のサイレンが鳴り響き、上空をB29の編隊が物凄い爆音とともに現れ、尾道が爆撃されるのではと心配していたら、東の空が紅く染まってきた。福山市が空襲を受けているようだった。

松下さんが非常に怯えるので、麓さんとなだめながら相談して、近くに係留してあった伝馬船を引っ張ってきて、もし尾道が空襲を受けるようなら、この伝馬船で3人で沖に出ようと覚悟を決めていた。それで松下さんもやっと落ちついた。

ようやく、朝6時の因島行きの定期船「土生丸」に乗った。松下さんは疲れたのか、私の横でぐっすり眠り込んでおり、朝日が当たると、彼の顔を覆っているチンク油と包帯の中で蛆がわいてるようだった。真夏のことで、気温も高く、ろくな手当ても消毒もしていなかったので、これは仕方の無いことだった。

松下さんの家は、因島からさらに便船を乗り継いで弓削島に渡らなければならなかった。弓削行きの便船に乗って、疲れきっている彼を励ましながら、彼を自宅の太田まで連れて行った。

松下さんの家では、お母さんが彼の顔を見るなり、あまりにも変り果てた我が子の様子に驚いて、奥に入ったまま出てこられなくなったのを覚えている。

これで、被爆直後の広島市南千田町の寄宿舎から松下さんを背負いながらの長い旅はやっと終わった。しかし、松下さんはそれから十日間ほど病院に通いながら、治療を受けていたが、当時は、十分な手当ても受けられず、とうとう帰らぬ人となった。松下さんが亡くなったという知らせを聞いて、赤尾さんは父親と一緒に、香典を持ってお焼香をさせてもらった。

宮地さん、岡野さんの両親へは、因島に帰るとすぐに、広島の状況を伝え、すぐに広島へ行かれるように伝えた。

岡野さんの両親は、すぐに機帆船を雇って宇品港に入り、大八車で大火傷の岡野さんを運んで、お母さんと一緒に因島に帰ってきた。しかし、彼も一週間後には息をひきとった。

木下良一さんの話

松下秀一郎さんは、幼少の頃はお父さんが中学校の先生をしていた関係で、韓国の木浦に住んでいた。いつ行って、いつ頃弓削に戻ってきたのかわからないが小学校4年生の時には弓削にいて、祭りの時、太田・土生地区が奴番(やっこばん)になっていて、太田から6人くらい出たが、その時4年生が太田には4人いた。松下省三さん、寺本忠さん、松下秀一郎さんと木下良一さんで、その時奴番に出たのは松下省三さんと木下良一さんの2人だけだった。その時には松下秀一郎さんがいたことを覚えている。土生からは10人くらいでたが、土生は6年生以上が出ていた。太田は人数が少なかったので、4年生から2人出して、全員で4人しか出なかったと記憶している。

松下さんは話しているとよくどもっていたが何かの拍子にこのどもりについて聞いたことがある。生まれつきではなく、韓国・木浦にいたとき近所に韓国人の若い人がいて、いろいろ世話をしてくれたり、かわいがってくれた。その若い人がどもりだったので、それを練習していたら本当にどもるようになったらしいということである。歌は上手で、どもることはなかった。

当時、小学校には松、竹、梅とあったが、木下良一さんと松下秀一郎さんはクラスが違っていた。木下さんは松組で松下さんは竹組だった。クラスはどのように分けていたのか記憶にない。小学校3年生までは男女共学だったが、4年生になると松組が男子だけ、梅組が女子だけ、竹組が男女共学となっていた。

(つづく)

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