英軍捕虜は何を見たか【7】第二章 初めての空襲

ケリー氏は、因島への最初の空襲である「3・19空襲」の際の日本側の誤認について言及している。
まず、この日の冒頭に現れた敵機を「日本軍の飛行機と推測して、船舶は砲撃を控えた」のである。さらに午前十一時に突然に現れた二十七機の編隊についても「日本軍の機体と思われてしまった」という。因島における防空態勢がいかに脆弱であったか指摘している。

この空襲で、日立造船因島工場で強制労働に就いていた英軍捕虜たちも危なかった。彼らも造船所の従業員たちと同様、命からがら逃げ惑ったのである。事実ケリー氏は負傷した。午前11時からの空襲の際、捕虜たちは、格好の攻撃目標である日立造船第八ドック脇で、木材を載せたトロッコを押していた。

我々は仕事を中断して見上げ、飛行機が何機あるか数え始めた。千フィートあるかないかのところにいた編隊の先頭にいた機が、頭上から直接、急降下爆撃を行なった。

奇跡的に当たらず、遮蔽物に向って我々は、バラバラになって狂ったように走った。私は、積み重ねられた鉄パイプの山から突き出ていた一本に全速力で走りこんだ。夕暮れまでに何をしていたのか、ほとんど気付かずにいた。私の胸に真っ黒な痣ができ、押し当てられた左腕は動かせなかった。(中略)

一方で、私の痣は胸部全体がほとんど真っ黒になる注目すべき現れ方をし、腕のほうは固まったままだった。私は収容所にもどるのに、その日の終わりまで待たねばならなかった。次の三週間、どんな仕事からも免除された。

「3・19空襲」につづいて多くのB29や他の飛行機が単独で、造船所の上空や周辺にやってきた。そのすべてが、日本軍の戦闘機や地上の防空態勢に妨害されることはなかった。ケリー氏は、この事態を「日本軍の空の戦闘力が実質的に壊滅していたのは、明白だった」と評価している。

さらに、日本上空の制空権がどれほどまでに連合国軍側の手にあったかを次のように述べている。

広島市に原爆を落としたティベッツ大佐が操縦するB29がサイパンを離陸したなら、土生の工員や捕虜によって三万フィート頭上の進路で目撃されただろう。というのは、可視高度で飛行する航空機にとって広島はしっかり直線で30マイルほどの距離だったからである。

ティベッツ大佐とは、広島市に原爆を投下したB29「エノラ・ゲイ」の機長である。それは、因島の真上を通過して広島に向ったというのである。

「3月19日の土生への攻撃の後、静かだった。単独飛行のいちいちに警報の振動音を鳴らすのをやめた。しかし5月5日、情勢が不吉な転換をとげた。」

ケリー氏は「5月5日」について詳細に描写する。

冬から春に変る、晴れわたった日だった。空はおよそ5分の1(パイロットは10分の2というだろう)積雲で覆われていた。午前10時警報が鳴り、つづいて紅白の旗が表示された。そしてすぐさま、接近する飛行機のエンジン音が聞こえて。我々は、防空壕として準備された丘の側面の洞窟の入り口に配置についた。

爆音は段々絶え間なく大きくなった。しかし飛行機は視界に入らなかった。積雲の塔のようにそびえ立つ峰から我々の少し南のおよそ1万5千フィートのところに、完璧なV字編隊を組んだ、四基のエンジンを積んだB24ないしはB29が出現し始めて、驚くほどの轟音が鳴り響いた。この9機が雲を抜けると、その両側に、同様に各9機のV字編隊の先頭機が姿を見せ、都合27機となった。

(青木忠)

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