英軍捕虜は何を見たか【6】第二章 初めての空襲

テレンス・ケリー著「日本人と暮す」の12章「因島空襲」は次の文章で始まっている。

独、伊、日本軍からの爆撃を受け、機銃掃射を受けた後に、今度は英米軍からの爆撃・機銃掃射を受けるはめになった。

著者は、自らが置かれている日本側の捕虜という立場から、因島空襲を描こうとしているのである。英軍捕虜が置かれている状況は単純ではない。彼らは攻撃する側の兵士であるにもかかわらず、その攻撃の対象でもあるのである。味方の空爆から懸命に逃げながら同時に空爆の効果を期待し、それによって何が起きるか冷静に観察しているのである。

因島が空襲不可避の情勢になるのは、1945年(昭和20)初旬のことである。因島は、造船所という広島県を代表する軍需工場を有しており、当然のごとくそれは、攻撃目標になった。

日本で深刻な空襲が始まったのは、1945年初旬、1500マイルほど離れたサイパン奪還に続いて、東京、名古屋にB29により、昼間の攻撃がなされた時からである。B29、またはBニ・ジュウ・クは、まもなく日本でよく使われる言葉になった。そして住民は、その性能に最大級の敬意を持った。

しかし頻繁な警戒警報にもかかわらず、数カ月以上、飛行機が見えなかったので、土生の造船所の工員の初期の不安はおさまった。何らかの戦闘行為を見ることになったのは、3月19日だった。

因島への最初の空襲は3月19日である。

早やめに振動音がして紅白の旗が振られ、敵機の砲撃音が聞こえ、その爆発が見えた。その少し後で、約50機編成の飛行機が少し離れたところを通りすぎた。造船所の上をゆっくり飛び、八機の戦闘機が出現するまで小休止がつづいた。これらが日本軍と推測して、船舶は砲撃を控えた。

飛行機はそれから、2機で1組になって回り始め、急降下爆撃に入り、湾に停泊していたルコント・ド・リールめがけて砲火を浴びせ始めた。2回の攻撃が行われ、数個の爆弾が落ちた。だが1個のみが甲板に当たり、機銃掃射で少々の損害があり、数人の死傷者(コックスヘッドの日記によれば死者5人)。

ルコント・ド・リールとは帝立丸のことで、日本がフランスから拿捕した船である。さらに空襲はつづいた。

空襲警報が解除されてからの午前11時、それ以上の警報がないにもかかわらず、27機の爆撃機の編隊が造船所の真上に突然、現れた。(中略)

次の数分間は心臓がドキドキした。マークや番号などが読めるほど飛行機は低く飛び、土生造船所の周囲に金切り声をあげながら機銃掃射し、爆弾を投下した。だが実際には、それらが与えた打撃は小さいほうだった。数個の爆弾は、クレーン車の軌道、船台を大分ボコボコにし、新造の航空母艦には銃弾や砲弾で穴があき、さらに死傷者が出た。

新造の航空母艦とは、岸壁で艤装中の「熊野丸」(M丙型陸軍特殊空母、9500総トン)である。この空襲で捕虜たちの志気は高まった。

しかしながら志気を高める観点からすると、途方もない材料だった。日本人はすっかり怯えていて、飛行機の接近の兆しがあると、従業員が防空壕に入ろうとして、次の数日間、実質上、仕事にならなかった。

(青木忠)

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