芸予に残る被爆犠牲者の足跡【2】

終戦70周年記念特集 弓削商船高等専門学校学芸部の調査・研究
芸予に残る被爆犠牲者の足跡【2】

商船学科 濱本桂太(4年)、森光勇介(4年)、滝川鉄也(3年)

聞き取り調査

平成17年10月8日に、因島大浜町の麓忠義さんから、麓さんの自宅でいろいろお話を伺った。また、同年10月27日には因島土生町の赤尾四郎さんからお話を聞くことができた。平成18年3月9日には元弓削町長の木下良一さんからもお話をきくことができた。以下にその概要をまとめておきたい。

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広島修道中学校在学生集合写真(昭和19年頃)

麓忠義さんの話

麓忠義さんは、昭和18年4月に広島の修道中学に入学した。同級生には、有名な平山郁夫画伯がいる。

松下秀一郎さんは、1年後の昭和19年4月に修道中学に入学した。なおこの時期、同郷の者としては因島から赤尾四郎さん、宮地広さん、岡野壮一郎さんの3人がいた。

修道中学では毎学期毎に寄宿舎の部屋変えがあり、秀一郎さんとも同室になったことがあった。

8月5日(日)は松下、赤尾、宮地、岡野の同郷4人組はそれぞれ故郷に帰省中であった。松下さんを除く他の3人は因島に住んでいたので、昼まで海で泳いで最終便で因島から尾道へ渡って、次の日(8月6日が招集日)に学校へ戻るため、5日中に広島市に行くことになった。

夕方の便で、岡野さん、宮地さん、赤尾さんと松下さんの4名が広島行きの汽車に乗り込む予定で尾道駅に集まった。しかし実際に汽車に乗れたのは3名で、赤尾さんは乗れず、3人を見送ることになった。

この時何故汽車に乗れなかったのかは、赤尾さん本人から聞いて欲しい。おそらく満員で切符が手に入らなかったのだろうと思われる。赤尾さんは、次の日の朝、汽車に乗って西条まで行き、そこから被爆直後の広島市内を通って南千田町の修道中学まで来ている。

松下さんたちが被爆したのは、8月6日の朝、寄宿舎で昼弁当を持たせてもらって、それを市役所に預けて、すぐ北側の国泰寺付近の建物疎開の作業中だったように聞いている。

8時15分、松下さんは帽子をかぶっていたので、頭は、何ともなかったが、顔が焼け爛れていたので、原爆の閃光を見て被爆したと思われる。被爆後、松下さんは自力で南千田町の学校に戻っていた。

一方、麓忠義さんは、昭和19年の秋、修道中学の2年の時、広島陸軍兵器補給廠に学徒動員されていた。それから昭和20年7月1日より9月30日までの予定で、宮島の包ヶ浦分廠に第二次派遣隊として派遣されていた。

8月6日の原爆の時には宮島の包ヶ浦分廠(爆心地より約15キロメートル南西の海岸)にいたので、直接被害は無かったが、海を隔てて物凄い閃光とともにキノコ雲やその後に市内が真っ赤に燃えているのが見えていた。

そのまま6日、7日はどうすることも出来ず、ただ見ているしかなかった。

翌々日の8日になってから、クラスメート50人くらいと一緒に軍の船で海路から宇品港に上陸した。そこから徒歩で寄宿舎に帰った。

寄宿舎の屋根はすべて落ちていて、青天井の見える部屋もあった。しかし、かろうじて倒壊は免れていたので、布団、教科書などはそのままあった。学校の状況は、プール横の新校舎、校門横の事務所棟、敬道館を残して、あとは大きく傾き、または、完全に倒壊している棟もあった。

(つづく)

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