英軍捕虜は何を見たか【4】第一章 証言者

つい最近のことである。全国の艦載機空襲被害を調査している仙台市の女性から、英機動部隊が米機動部隊とともに7月28日に因島を空襲したという調査結果が、私に届けられた。初めて知る事実である。

このリポートによって、部分的な修正を迫られることになった。私は一貫して、「米軍だから、工場や収容所に英軍捕虜がいることなどに構うことなく無差別に攻撃できた」と解釈していた。

攻撃に参加したのは、英第37機動部隊である。その報告書によれば次の通りである。

  • 部隊編成 アベンジャー19機、シーファイア8機、ファイアフライ7機、コルセア4機、計38機。
  • 当初任務 土生造船所の攻撃。
  • 発信時刻 午前8時45分。
  • 目標到達 午前10時頃(推定)。
  • 帰還時刻 午前11時45分。
  • 追加装備 225キロ(500(月))爆弾合計68発投下。

この事実に英軍捕虜たちは気づいていたのであろうか。また攻撃に参加した英機動部隊の操縦士たちは、眼下に味方の空軍兵士がいることを知らされていたのであろうか。空襲は無差別攻撃である。たとえ攻撃対象に味方がいたとしても選別した攻撃はできないのである。

この米英の無差別空襲にさらされた体験を一冊の書籍にまとめあげたのが、元捕虜の作家であるテレンス・ケリー氏である。その本の12章が「因島空襲」に当てられている。実に貴重な歴史資料である。

その著作「日本人と暮す」の序文でケリー氏は、因島時代を振り返って次のように述べている。

―そしてまた、仲間の捕虜や監視員以外に会うことのない多くの捕虜と違って、我々は(造船所で働くことによって―筆者注)普通の日本人とともに働いた。彼らは戦争を知らない老人、二年間の軍役を終えた後に帰還した若者、英語を話しアメリカに住んだ経験を持つ、船を離れた船員たちだった。我々は、日本が勝利で有頂天にある初期の日々と、敗北が差し迫り、我々の造船所が爆撃で粉砕され、その機能をほとんど停止された後期の日々を、彼らとともに共有した。

我々はほんの少し彼らの言葉を学び、同じ食べ物を食べ、同じ労働をし、同じ傷で苦しみ、同じ爆撃を耐えた。そして、戦争の終わるころ、同じ窮乏を味わった。日本のすべての主要都市は破壊され、極めて深刻な供給不足で店は商品や食料が空になり、ただ飢えと恥ずべき敗戦だけが前途に横たわっている国であった。(南沢満雄訳)

同じ空襲を受けた私は、テレンス・ケリー氏に対して親近感を感ずるようになった。彼はジャワで捕虜になり、1942年11月から日本の敗戦まで因島収容所で過ごした。その間、造船所で日本人とともに働いた。そして2度の空襲に耐えたのである。

ケリー氏は、「我々はとても幸運だった」と述懐している。戦争が終わり、故郷への帰途のシドニーで、戦慄すべき事実を知らされるのである。

―土生ドックの大規模な攻撃もすでに予定されて記入され続けられ、日本の降伏、日本はそれをしたが、それがなければ、確実に実行されるところだった。

日本が降伏した3日後の8月18日が、因島工場の第8ドックの絨毯爆撃予定日として指定されていたという。ケリー氏は、それが2、3日早く起これば、「我々の誰も日本を去ることができなかっただろう」と述べている。

(青木忠)

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