英軍捕虜は何を見たか【3】第一章 証言者

私は、「天皇のお客さん」の著者であるクック氏のことを時代の証言者だと思った。彼は、戦時下の因島を実際に生きたばかりか、その体験を一冊の書籍にしたのである。残念ながらそこまでした日本人は一人もいなかった。

クック氏は次のように自らの立場を表明する。

―私は自分の捕虜仲間はもとより、捕虜係、さらに文中に出てくるすべての人たちに対してフェアであったと信じている。良い日本人もいれば悪い日本人もいたのと同じく、良い捕虜もいれば悪い捕虜もいたのである。

クック氏によれば、土生(因島)に着くとすぐ、つまり一九四二年(昭和一七)末には、収容所は空襲対策として灯火管制をしいていた。捕虜たちは、その事実を知ることで日本側の敗勢に気づいた。彼らの士気は上がった。

翌年になると空襲情勢はいっそう緊迫した。

―私はリッキーの代理として、所長室で行なわれた各室長のミーティングに出席した。すでに緊迫化していた空襲に対する警戒態勢の説明会である。通訳の中野が席につき、野本(所長―筆者注)は隣室で、なんとトイレット・ペーパーの目方を計っていた。

中野の英語は、その日にかぎり、妙に古めかしい調子で「本日ここに集まったのは」と彼は切り出した。「異常なる時代を討議せんがためである」―非常時の意味であろう。彼は重患者の者は建物の外へ出さなければならないという点を、くどくどと語ってから、「もし火勢にして大なる場合は、諸君も部屋を後にしうる」とつけ加えた。

彼は机の上にあるノートと写真を参考にして、焼夷弾が日本の木造家屋に落ちた場合の猛威を、けばけばしい色彩の絵にかいてから、「わたしは非常に怖いと告白しなければならない」と、自分自身も恐怖していることを認めた。それからラッパ手が呼ばれ、防空演習と実際の空襲、火災演習と実際の火災、といったあんばいに吹き分けてみせたのである。

本当の空襲警報は数日後の夜に鳴らされたが、残念ながら飛行機はこなかった。

リッキーはリッキー・ライトのことで、捕虜部隊の隊長だと思われる。彼らは捕虜になっても部隊を維持していたのである。

ミーティングの様子から収容所が焼夷弾攻撃をいかに恐怖していたか伝わってくる。そもそも焼夷弾は、攻撃対象を燃やすために使われるものである。木造二階建て二棟の収容所は、それに狙われたらひとたまりもない。

クック氏は一九四三年十二月、香川県の善通寺捕虜将校収容所に移される。因島に連れてこられて、ほぼ一年後である。その収容所には最終的に八百人が収容されていた。

彼は空襲下の善通寺収容所について興味ある事実を記述している。空襲警報のサイレンが鳴ったある夕方の収容所の描写である。

―日本軍の番兵たちは、片手に着剣した銃をもち、もう一方には双眼鏡をもって炊事場の屋上に陣どっていた。捕虜の消火班員たちは全員、部署についている。料理包丁や肉包丁類、ウサギの草を刈る、おもちゃまがいのカマもすべて日本兵に炊事場から持ち去られた。

早めに点呼をとると、消火班員以外の捕虜は全員、消燈し、真黒なカーテンを引いた暗闇のなかで就寝せよと命令された。

収容所側は空襲ばかりか、その機に乗じた捕虜の反乱、脱走を恐れていたのではないか。因島の場合は、どうであったのか、関心のあるところである。

(青木忠)

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