短歌はわたしの生きがい 戦時中の心の支えだった 松井嘉壽子さん(椋浦短歌会)

「ウクライナの ニュースを見るたびに 思い出す わが青春の 戦争の日々」

椋浦短歌会 松井嘉壽子さん

これは松井嘉壽子(かずこ)さん(95)が最近詠んだ短歌である。

愛媛県新居浜市出身、愛媛師範学校(現愛媛大学教育学部)卒業後、新居浜小学校教師として赴任。

その後結婚を機に因島椋浦町在住。三庄小学校~椋浦小学校~大浜小学校~田熊小学校教師をつとめ、昭和63年(1988)に退職。大浜や田熊の時は、船の1便で出勤し最終便で帰宅。遅くなれば保護者が車で自宅まで送ってくれたこともあったと懐かしむ。

松井さんが「生きがい」という短歌に出会ったのは新居浜高等女学校(現新居浜西高等学校)時代である。伊東先生の「万葉集が好きな者集まれ!」という声があがると、迷わず参加し、毎週解説を楽しみながら聞き、しだいに短歌に引き込まれていった。

小学校時代は昭和12年(1937)盧溝橋事件で日本が中国大陸への侵略を開始した時代、女学校2年生の時が真珠湾攻撃という松井さんの青春時代は日本の長い戦争の歴史と重なる。しかし短歌がたえず心の支え・励みとなったという。

特に心を動かされた歌がある。

「あかねさす むらさき野ゆき 標野(しめの)ゆき 野守(のもり)は見ずや 君が袖ふる」

という額田女王(ぬかだのおおきみ)の歌と、その返歌である大海人皇子(おおあまのみこ)の

「紫草(むらさき)の にほえる妹(いも)を にくくあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」

である。大化の改新・壬申の乱の激動の時代に想いをはせてますます短歌の世界にのめり込んでいった。多感な女学生時代の松井さんが眼にうかぶ。また

「塾田津(にぎたづ)に 船(ふな)のりせむと 月待てば 潮もかなひぬ いまは漕ぎ出でな

(額田女王)という歌が今から1350年あまり前、愛媛県松山市道後温泉付近の港で詠まれたものであるという縁もあるのだろう。

昭和20年(1945)2月~8月15日終戦まで、名古屋の三菱重工業で特攻機「神風」製造に学徒動員された。昼は戦闘機づくり、夜は万葉集。師範学校2年生でようやく終戦を迎えた。

椋浦短歌会 52年

戦後、複式学級の椋浦小学校時代、毎日「宝物の時間」を作り、子どもたちは草花や日々変わる自然を見ながら新しく気づいたことや感動したことを「宝物」として発表した。子どもの宿題に保護者が関心を寄せるようになった。物事や人の心を正面から見つめて欲しいと願った。そのうち保護者に「一緒に短歌を作ってみませんか」と声をかけて、PTA6~7人でガリ版刷りの短歌会の通信を月1回出し始めた。広島の「真樹」という月刊短歌誌にも参加した。

昭和45年(1970)、椋浦小学校の教室に山中孝俊さんを指導者に迎えて、短歌会が誕生した。その後、椋浦いきいきサロン(元老人集会所)での短歌例会が始まった。砂文字短歌会の池田友幸さん(因島三庄町・故人)を指導者に迎え、いまや50年を過ぎた。短歌会の集大成として「歌集」を是非とも作りたいと考えている。

「短歌は日記がわり。ストレスを歌にすると二分の一になる」そうだ。「短歌に助けられ、悩み苦しみを短歌に吸い取ってもらう。生きる喜び、一生離さない宝物」と語る。

今年は戦後77年目。松井さんが参加している「月刊歌誌真樹」は毎年この時期に「広島平和希求号」を発行している。

「田辺聖子の 終戦前後の 日記よむ わが青春も 爆撃の下」

という短歌を今年は発表した。

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