空襲の子【29】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 小丸正人さんに捧ぐ(中)

 小丸正人さんがコミヱさんと結婚したのは昭和13年10月14日である。夫25歳、妻21歳。コミヱさんは「理想的な結婚だった」と微笑みながら振り返る。やがて昭和15年に長女・由紀子さんが、17年には次女・祥子さんが誕生する。高等小学校を卒業して就職した日立造船でも正人さんは、職場責任者のあとつぎとして期待されていた。


 コミヱさんは高等小2年のとき(現在の中学生)、正人さんを見初める。当時父親の仕事の関係で東京・品川あたりに住んでいて、法事で帰省した際、幼い妹を子守りする彼を田熊町の八幡神社で見かけた。「そのやさしい姿に感動して、将来、自分の主人になる人はこの人だと感じた」という。まじめな人間、くそまじめ、やさしい人、怒ったことを見たことがない。私にはもったいない人だった。いまなお、思慕の言葉が止まらない。
 父が死んだことを知らされた長女・由紀子さんは、「なんでその日に工場に行かせたんか」と思ったと回想する。5歳4カ月の幼女はその日の朝のことを覚えていた。祖父・和兵衛さんと妻は、微熱で頭痛がする正人さんの出勤をとめようとした。3人がもみ合いになった。「もしも、自分が休んで部下だけで、何かがあったらいかん」と、制止を振り切って父は出かけた。
 祖父と妻が引きとめるには理由があった。すでに呉市と因島は、昭和20年3月19日に米空軍の爆撃を受け、日立造船でも工員一人が犠牲になっていた。7月28日当日も真夜中から、ひっきりなしに空襲警報の発令と解除が繰り返されていた。今日は何かあるぞと、予感したとしても決しておかしくない状況であった。幼子だった由紀子さんや祥子さんですら、呉方面に向かう米戦略爆撃機B29の飛行音の不気味さや空襲警報のサイレンの音への怯えの記憶がぬぐい去れないと語る。
 しかしそのような時だからこそ、工員たちは出勤して行った。戦時下である。
 恐いからといってどこに逃げる場所があろうか。空襲への備えのための訓練もされていた。正人さんも、いざという時の覚悟を秘めて、いつものように職場に向かったのだろう。「自分が休んで部下が犠牲になっていたら、夫は自分が死ぬよりもっと悔やんでいたでしょうね」とコミヱさんは述懐する。
 因島空襲は呉空襲と2度とも一体だった。昭和20年7月下旬には、米空軍による機雷の敷設によって、呉軍港は事実上封鎖状態にあった。7月28日、最後の本格的な空爆が、呉軍港中心に行なわれた。県警察部の調査によれば、この日午前6時10分ころから夕刻4時25分ころにかけて、「県下沿岸部主トシテ呉市呉軍港安芸郡江田島村御調郡土生町艦船並ニ軍施設及重要工場ニ対シ銃爆撃」があり、「艦載機主トシテ小型機延約九五○機及大型B29B24延一一○機」と記録されている。
 当時の日立造船因島工場関係者の最新証言では、犠牲者は100人をはるかに超えていた。1号岸壁に係留されていた陸軍の日寅丸が弾薬庫に被爆し、転覆・炎上、他の船舶も沈没したという。
 この日を境に、一家の大黒柱を失った小丸家は激変する。しかも空襲による犠牲は戦死ではなかった。何の役にもたたない死に方、つまり「犬死」と見る風潮があった。
在りし日の小丸正人さん
在りし日の小丸正人さん

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