空襲の子【28】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 小丸正人さんに捧ぐ(上)

 田熊町の小丸正人さんは昭和20年7月28日、米軍の空襲により、日立造船因島工場内の職場近くで亡くなった。定盤工場の前にあった仮設の防空壕が爆撃で直撃され、そのなかで圧死したのだ。正人さんは大正2年3月27日生まれ32歳。妻・コミヱさん28歳、長女・由紀子さん5歳4カ月、次女・祥子さん2歳10カ月の3人が残された。


 祥子さんは戦後60年を迎えた一昨年の7月28日、長年ずっと思いつづけていた父の最期の場所は何処だったのだろうかと、思い切って夫・孝康さんと日立造船因島工場を訪ねた。守衛に問うたが、時代の移り変わりだろう、空襲があった事実も知らなかった。西門を入ったすぐ近くに殉職者の碑があることを教えられ、手を合わせて帰った。
 しかしこれは、大きな一歩だった。まったく記憶に残ってないという父の面影と最期の場所を調べる歩みが始まったのだ。祖父・和兵衛さんの戸籍謄本に、「昭和貮拾年七月貮拾八日、時刻不詳、御調郡土生町ニ於テ死亡」とあった。時刻は当時の警防団関係者の記憶により特定することができる。午前11時45分から約7分間にわたり、因島工場は爆撃を受け、相当な損害を受けたという。
 父はどこで亡くなったのか。当時、同じ職場に勤めておりすんでのところで助かった引地一政さん(当時19歳)から、祥子さんは話を聞くことができた。仕上げ工であった小丸正人さんは毎日仕上げの職場から定盤工場に行き仕事をしていたという。2号ドックのすぐそばである。米軍はこの工場区域を造船所の中枢と見て、狙いすました爆撃を加えた。
 従業員は職場のそばに設けられた防空壕に避難した。それは真砂を盛り上げ、ウィンチの蓋をかぶせた仮設のものだった。ひとたまりもなかった。爆撃後にはそこは平地のようになっていた。引地さんは皆に言ったが分ってもらえなかった。しばらくして、どうしても気になって全員で掘ってみた。やはり30人ほどが埋もれて死んでいた。死体はいずれも傷もないきれいなままであった。
 発見された遺体はいったん、社葬会場である土生町の善行寺に運ばれた。妻・コミヱさんはそこに駆けつけ夫と対面した。それからどれくらい経っただろう。寺から本通りを通って宇和部方面に向かった。当時は現在の海岸に沿って走るバス通りはなく、本通りまで海がきていた。
 最愛の夫を失った妻は、すべてのことを忘れて死のうと思った。もう死なにゃいかんと思った。海に飛び込もうと桟橋に向かって走った。実父の大谷政雄さんが抱きしめなかったらどうなっただろう。現場の近くにある大山神社そばに住んでいた父は気配を察知したのだろう、娘を必死に探していた。
 「由紀子や祥子が家でまっとるぞ」。父が叫ぶわが子の名にわれに帰った。2人の子の母親にもどった。「やはり子どもをおいて死ねん」と思った。それから田熊の自宅に向かうと、すでに夫の亡骸は自宅にもどり、仏壇の前に横たわっていた。

 大正初期の2号ドック=写真右側。左側は1号ドック。現在は2号ドックは埋め立てられている。

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