警察官僚亀井静香を政治家に転向させた「浅間山荘」事件の背景【3】

あの連合赤軍一味の浅間山荘人質救出作戦のテレビ中継は視聴率合計が89.7%だったというから国民のほとんどの人が見たことになるが、記憶が薄くなっている人や新世代の人たちのために、その事件をかいつまんでふり返ってみよう。

1972年2月19日夕。積雪にすっぽり包まれた南軽井沢の新興別荘地で銃弾を放ちながら数人の若者が河合楽器の保養所に立てこもった。人質となった管理人の妻、牟田泰子さんの安否はつかめないまま犯人と警察が厳寒の山中でにらみあい、報道陣も持久戦の様相が続いた。

3日目になって犯人の母から息子に呼びかけが始まった。そして4日目の朝になると犯人は母親らが乗った装甲車に向け発砲した。崖の上からと下からでの攻防条件はまるで違い、崖上の犯人たちの方が有利だった。県警と警視庁との連携もうまくいかず、強行偵察や高圧放水での威嚇、山荘への送電を中止するなどしたが効果はなかった。厳寒での水攻めは人質の安否が心配だった。

28日朝ついに「決戦命令」が出された。クレーン車の大鉄球が山荘の壁を粉砕し強行突破がはじまった。戦場さながらの救出作戦に国民の目はテレビの前に釘づけになった。10日間にわたった「浅間山荘事件」は犯人5人を全員逮捕、警察官殉職者2人、一般死者1人、負傷者27人の大惨事で終結した。だが、本当に身体が戦慄におそわれたのは、連合赤軍の彼らが犯したリンチ殺人事件がつぎつぎと明るみに出たことだった。言って見れば「浅間山荘事件」は、連合赤軍の最後の砦になったのかと思うと慙愧に堪えない。

戦略的メディア活用

当時、警察庁長官の後藤田正晴氏をはじめ警察関係者は、現場の様子を見れば世論が警察側の見方に付く、という思惑があった。東大安田講堂の攻防でも警察官が学生の投げる火炎瓶や投石に苦しめられている映像に国民の同情をあつめた。この頃から警察側が戦略的にメディアを活用するようになり、浅間山荘事件では、新聞、雑誌、テレビ、ラジオの記者ら合わせて千人が繰り込んだ。警察の作戦遂行の心得にもマスコミとの関係を良好に保つよう書いてあったという。

テレビ中継のはじめのうちは犯人の青年たちが千早城の楠木正成のように映り、心のどこかで同情した。それが一変したのは、連合赤軍のリンチ殺人事件が発覚してからである。なにしろ連合赤軍29人のうち12人がリンチにより殺されて埋められ、なかには妊娠した女性もいたというむごたらしい状況が次々と報道されはじめてからだった。

連合赤軍が最後の砦にした南軽井沢の保養所

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