空襲の子Ⅱ【60】十年間の調査報告 辿りつきしところ(2)

 何か確かなものをつかみとろうとして彷徨いつづけたあげく、亡き母・清子の胸に辿りついたのである。それは単に生母という意味だけではない。母と私は、祖母とともに爆撃で瓦礫と化したわが家に埋まり運命をともにした、特別の絆で結ばれているのである。


 母は私が6歳に届く前に死に、祖母はその4年後に他界した。ふたりは、決してその事実を私に告げなかった。その代りに特別の愛おしさをもって私を想ってくれたに違いない。
 離別した者同士は、時が経てば経つほど、互いに引き合うものなのだろうか。母と祖母のことを忘却するにつれて私は成長していったが、生まれ故郷へのUターンを契機にふたりのことを想う頻度が増え、その深さが増してきた。ありとあらゆる努力をもって、そのころの記憶を蘇らさねばならないと想う。
 私の父は断言した。お前の生は母と祖母の犠牲あらばこそであると。ようやくその意味が分りかけ、自らの生が二人の生と死の継承であるという自覚が芽生えてきた。そして、ふたりとの再会としての心の触れあいがいつの日かできるのではないか、と期待するようになった。母と祖母は間違いなく私のなかで蘇っている。とにもかくにも会話がしたい。
 私たち3人は、空襲のあったあの日、なぜ防空壕に避難せずに自宅に留まったのでしょうか。それは生後10カ月の私が、以前に防空壕に入ったさいに、泣きわめき、町の人たちに迷惑をかけたからですか。
 私の家がその日、まさか爆撃に見舞われるとは予想できなかったでしょう。誰だって爆弾は近くの造船所に投下されると思っていましたよね。そのときは驚いたでしょう。なにしろ生まれてまもない私が一緒ですものね。
 私を抱いて鳴り響く空襲警報のサイレンを聞いていたのですね。その爆発の瞬間、覆いかぶさり、崩れ落ちるわが家の衝撃から私を守ってくれたのですね。痛かったでしょうね。身体は大丈夫でしたか。きっと怪我をしたでしょう。骨折はしませんでしたか。全身に受けた打撃は相当なものだったでしょうね。
 ところで私たちはどのぐらいの時間、生き埋めになっていたのでしょう。なにしろ爆撃直後のことで、依然として空襲警報はつづいていたでしょうし、救出作業は容易でなかったでしょう。その間、何を想っていましたか。私のことですか。
 私は仮死状態だったと、しばらくたって父から告げられました。意識不明となり、呼吸も止まり、まるで死んでしまったように見えたでしょう。心配でいたたまれなかったでしょう。でも身動きがとれないのですから、どうしようもありません。防空壕に行かなかったことを後悔しませんでしたか。そのために私が死んでしまったなら、どうすればよいのかと気が気でなかったでしょうね。
 私が息を吹き返したときに、負傷したあなたたちはどこに臥せていたのですか。私が大丈夫だと誰から聞きましたか。ホットしたでしょう。その他に骨折など、私は怪我をしなかったようです。それはきっとふたりのおかげですよ。命だけではなく身体も完全に守ってくれたのです。
 ところで長年にわたる疑問がひとつあります。ささやかなことですが、私の左耳のすぐ上に、かなり目立つ傷痕があります。絶えず気になっていました。十年ぐらい前のことですが、それがその時にできた傷によるものではないか、と気付きました。そのように思い込むと何か嬉しいのです。それは、あなたたちの子として、孫としてともに空襲を受けたことの証しですもの。
 まだまだ話したいことが沢山あります。しばらくの間、お付き合いくださいね。
(青木忠)

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