空襲の子【26】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 故阿部正さん

阿部正さん 土生は戦場だった。2回にわたって掲載した常盤正和さんの追悼文「阿部正君の死」を読んでの感想である。土生町から三庄町につづく日立造船因島工場、土生町のほぼ全域、7区・8区を中心にした三庄町は、激しい空爆と機銃掃射に襲われ、多くの犠牲者がでた。田熊、重井、鏡浦でも機銃掃射の話を聞いた。


 日立造船社史によると米軍の空襲は第一回目が3月19日、第二回目が7月28日となっている。しかし、6月25日ころにも空襲があったと語る人が複数いる。
 常盤さんは7月28日ではなく、その前日の27日に空襲があったと強調する。アメリカ軍の作戦記録には28日、毎日新聞社が出版した「別冊1億人の昭和史」の写真説明には、29日とある。
 そこで常盤さんの文章にそって空襲の有様を見ていこう。当時の工場は、正規の社員、下請従業員に加え、徴用工(別の職業についていた人が強制的に動員された)、学徒、女子挺身隊、朝鮮人徴用工、英軍捕虜など7、8千人が働いていたと思われる。因島工場への動員校は、尾商、尾中、盈進、竹原商業、戸手実業、木江造船、土生高女の4、500人。尾商は3年生およそ100人。生名寮の尾中と自宅通勤の土生高女以外は、工場のすぐ近くの三庄町家老渡(かろうと)にあった協和寮に入寮した。現在は駐車場になっており、ぼやけた看板が名残をとどめる。誠之館は占部造船(現・内海造船田熊工場)に配属された。
 三庄町8区には英軍捕虜収容所があった。記録によるとイギリスやオーストラリアの捕虜185人が収容されており、毎日、工場で強制労働についていた。
 その日(7月27日)、空襲は2波にわたって行われた。最初は入門直前にグラマン6機による機銃掃射をうけた。そしてまもなく、本格的な空爆が襲った。機銃掃射だけではなく爆弾が落下、SB艇(上陸用舟艇)に命中轟沈、出港直前の貨物船である日寅(ひとら)丸は炎上した。工場も直撃をうけ多くの死傷者をだした。
 タンカー船砲隊(当時のタンカー、貨物船は武装していた)、生名島の高射砲、入港中の艦船から応戦して戦闘が始まった。しかし制空権は完全に米軍の手中にあった。当然、防御の配置についていた軍人が死亡したと予想される。
 2波目の攻撃は警報がだされないままの突然のことだった。工場のいたるところで逃げ遅れ防空壕に入りきれずに犠牲になった人も多かったろう。当然、生死にかかわる重傷者も多くでた。戸板に乗せられ近くの因島病院に運ばれた。
 病院は負傷者で溢れかえった。爆撃によるものであるから負傷はいずれも緊急を要するものばかりであったが、それへの対応は病院の収容能力をはるかに超えていた。野戦病院の有様であった。常盤さんは「まさに戦場であり、凄惨の極み」と表現している。病院に担ぎこまれたものの息絶えた人も決して少なくなかったろう。
 工場内で即死した犠牲者の亡骸は数百メートル離れた善行寺に次からつぎへと運ばれてきた。形ばかりの社葬が行われた。読経をあげたり、戒名もつける暇もなく、その大半は荼毘に付すために現在の因島公園直下の臨時野外火葬場へと運ばれた。
 7月下旬の炎天下、遺体の痛みは激しく、遺体と遺体が引っ付かないようにするのが精一杯であったという証言が残っている。

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