空襲の子Ⅱ【58】十年間の調査報告 31年前の新聞(5)

 破壊活動防止法違反の裁判を東京地裁において闘っている最中の私は、因島空襲調査における致命的な失敗を犯すのである。全国的な公刊物において因島空襲の写真が公開されたにもかかわらず、見逃してしまったのだ。


 毎日新聞社は1980年8月30日、「別冊1億人の昭和史 銃後の戦史 一億総動員から本土決戦まで」を発行し、そのなかで日本各地が空襲されている写真を掲載した。その「関西・四国方面」のページに米軍が撮影した、三庄町の造船工場と居住区が爆撃されている写真が収録された。写真説明は次の通りである。

―因島 米英艦隊から発進した航空機が20年7月29日 九州北部から瀬戸内海 さらに駿河湾までの一帯に大空襲を敢行した 写真は因島の日立造船所が空爆を受けているところ

 日付は7月28日とすべきところであろう。さらに、漠然と因島とするのではなく詳細を調べて、三庄町に対する空襲と特定するべきである。
 しかし神戸、明石、姫路、高松、徳島のものとともに整理されている1枚の写真は、しかるべき者が見れば、疑いもなく三庄町の無惨な姿そのものである。馴染み深い、工場正門から居住区に入る通路や、空襲で焼けだされた私たちが戦後住むことになった2階家が鮮明に写し出されている。そのすぐ先で、10名とも言われる子どもたちが死亡し、生後10カ月の私は母や祖母らとともに生き埋めになり、生死の境をさまよっていた。
 その書物が発行されたころ私はすで30〇歳を越えていた。そのころ何をしていたのか、様々な場面が回想される。書名には確かに記憶がある。しかし、その写真を見た覚えがないのだ。では仮に、それを見ていたとしたら私は何を感じ、どのように行動しただろうか。自信のある答えが出せないでいる。
 私が三庄空襲の写真の存在を知ったのは、発行後26年も経た2006年7月のことである。しかもこの写真が日立造船土生工場のものと思い込んでしまい、三庄町のものと気付くためにはそれから5年ばかりを要した。
 最初に知らせてくれたのは、向島町の故花咲清康さんである。彼は旧尾道中学校生として日立造船土生工場に学徒動員され、3月19日の空爆を浴びた。その後、コツコツと因島空襲の調査をつづけていた。
 この写真のことを知らないままの私の空襲調査は、おくればせながら2002年夏に始まった。立ち遅れは回復しがたかった。
 その前年の5月5日の中国新聞「この人」欄に、私が取り上げられた。56歳のときである。見出しに、「映画を通し、瀬戸内のまち・島おこしを仕掛ける」「人が出会い、つながれば、元気になる」とある。さらに私を次のように紹介している。
―国を相手に20年におよぶ裁判のうちに出会った人脈と経験を今、地域おこしに生かそうとする。元全学連書記長。広島大に在籍していた69年の「沖縄奪還闘争」で、都内でのアジ演説が扇動罪に問われた。
 「思想、良心の自由」の観点から扇動罪適用は違憲とし、著名な代議士や憲法学者らも支援したが、最高裁は上告を棄却。翌91年に妻子と帰郷した。裁判の行方を案じ、老いた父をみるためだった。畑でハッサクを育て、学習塾を開いた。じっと足元を、古里を見詰め直した。
 すでにそのころ、空襲調査への問題意識を自覚していたものの、それを誰にも告げることができずにもがいていた。その調査を開始する重圧の前におびえ、立ちすくむばかりであった。
(青木忠)

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