空襲の子Ⅱ【57】十年間の調査報告 31年前の新聞(4)

 自由国民社から共著で本を出した直後、いっそう大きな発言の場を得た。中国新聞東京支社から全学連書記長の私に、宮地茂文部省大学学術局長(当時)と対談をする企画が持ち込まれたのである。


 通常、文部省の幹部と学生運動のトップが対談するということはあり得ないのだが、ふたりが広島大の先輩と後輩の関係にあること、さらにふたりとも因島出身であることが縁となって実現した。宮地局長は土生町、私が三庄町の生まれである。
 テーマは大学問題で、1968年10月の中国新聞にぶちぬき2面をとって掲載された。この原稿を書くために改めて読んでみた。お互いに看板を背負っているので自らの立場の主張に終始している。あまりにも硬い。司会の川西平信・支社編集部長が「平素のカミシモを脱げば親近感も生まれようというもの」と場を和らげようとするが、いかんともしがたい。
 同郷出身ということで実現した対談なのに、因島のことなど一言も会話が進まなかった。この責任は私にある。宮地局長は「ぼくは君のお父さんを良く知っているよ」と水を向けてくれたのだが、「そんなこと関係ないでしょ」と郷土談義に話が進むことをさえぎってしまった。
 今思うに実に残念なことをした。宮地局長の生まれは、大正3年(1914)である。当然、私の知らない因島を生きた人である。私が謙虚に質問すれば、その時代に話が及んだかも知れない。とりわけ戦時下の因島について私は耳を傾けたことだろう。
 この対談では、学生運動のあり方が主要な論争となった。宮地局長は私を次のように批判した。

―青木君はまず大学の現体制を認めない。それなのにそこに籍を置いている。そして全国をオルグして走り回っているわけだが、一般の概念としては勉強すべき学生が、勉強そっちのけで現制度下ではやるべきではないと思われることをして、それで大学を追われる理由はないと言うのは納得いかない。

 これは、「大学制度に批判のある者は大学を去るべきだ」という暴論につながる主張であると感じた私は、「現代の学生のあり方として、今、われわれがなすべきことは学生運動だというのが僕たちの考えだ。大学の授業を受けることだけが学問研究とは考えない」と反論した。当然この議論は、水と油に終わった。
 今思うのであるが、宮地局長との学生運動の議論に因島という観点を持ち込んでいたらどうだったであろうか。私が広島大において教師への進路を変更し、学生運動の道を選択した背景に因島空襲の体験があることを告げたら、局長はどのように応じたであろうか。対談は思わぬ方向に展開したのではないだろうか。
 1970年7月20日から1990年9月28日のおよそ21年間、東京地方裁判所、東京高等裁判所、最高裁判所の公判廷において私は、発言の機会を与えられた。人生を決定した破壊活動防止法裁判である。1969年4月28日沖縄デー事件をめぐって争われた。
 裁判は、講演や演説の内容そのものを破壊活動防止法の扇動罪で罰しようとしたものである。私ほか四人の演説が犯罪とされたのである。被告側は、この裁判の違憲性を指摘するとともに自分たちの演説内容の正当性を立証しようとした。
 こうした裁判の性格から法廷において被告人は、何度も所信表明の場が与えられ、本人尋問おいても長時間の陳述ができた。しかしながら私は、沖縄・安保問題について十分すぎるほどの論陣をはったのにもかかわらず、因島におけるわが戦争を語ることはなかった。
(青木忠)

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