空襲の子Ⅱ【54】十年間の調査報告 31年前の新聞

 昨年12月上旬のある会合でのことである。同席した向島町の写真家から、31年前の中国新聞の記事を見せてもらった。日付が昭和57年2月9日と鉛筆で記入されていた。私がUターンし、因島に住み直すおよそ10年前のものである。


 「殉職者慰霊碑を建立 創立100周年で日立造船因島」という見出しと写真付きの記事である。

―因島市土生町、日立造船広島工場因島(石井章董工場長)は、会社創立100周年を記念して、約500万円で同工場正門横に殉職者慰霊碑を建立した。
 慰霊碑は、高さ約3メートル、横約4メートル、厚さ1.5メートル、重さ26トンで、愛媛県産の青石という自然石を使っている。因島市中庄町出身で、横浜市の総持寺副管長松浦英文老師が命名、永田敬生日立造船会長が揮ごうした「殉護照」が刻まれている。
 碑は、築山自然公園風に造成された450平方メートルの広場の中央に建立され、昭和22年3月と7月の空襲で犠牲になった職員27人をはじめ、因島工場創立以来の殉職者251人、協力会社の殉職者32人など計299人の名簿が埋められている。

 この記事を読んだ私の胸中は複雑であった。やはりそうかと思った反面、何故因島空襲が、このような中途半端な記事に扱われているのか、怒りさえ感じた。この殉職碑「殉護照」は今や私にとっても馴染深い。2006年7月28日に空襲犠牲者の遺族がお参りした。
 つづいて8年、9年と、その前で慰霊祭が行われた。やはり、この碑のなかに空襲犠牲者の名簿が埋められていたのだ。この事実は公然の秘密で、会社側の「名簿は現存しない」という説明など誰も信用しなかった。
 さらに「空襲で犠牲になった職員27人」と、犠牲者の数を明示している。おそらく会社側の発表をうのみにして記事にしたものであろう。会社は、社史の「2回にわたって空襲を受け、数名の死傷者を出した」という見解などなかったかのごとく、職員27人というように犠牲数を発表したのだ。
 ここで指摘せざるを得ないのは、記事を発信した当時の中国新聞因島支局のていたらくぶりである。この内容から伺えるのは、因島空襲そのものへの無関心さである。当然、社史や因島市史のそれに関する部分を読んでいなかったに違いない。したがって会社の見解との食い違いに気付くはずもなく、いわゆるたれ流し記事を載せて平然としていたのである。
 私はこの記者に会いたくなった。じかにこの記事について問いただせば、何かが分かるかも知れないと期待した。中国新聞尾道支局に問い合わせた。しばらくたって、氏名は判明したが、記事を書いた記者はすでに亡くなっている、との回答を受けた。31年の月日の重さを感じずにはおれなかった。
 ちょうど同じころ私は、別の新聞記事を懐かしく思い出していた。2006年7月6日付の朝日新聞・大野正昭記者のものである。

―(「日立造船百年史」は)「数名の死傷者を出したほか、工場の施設も損害を受けたが、ほとんど操業に影響はなかった」と記しているが、社友会記念史では、2度目の空襲に関して「100人もの死傷者で大変なことになった」などとする記述がある。

 大野記者は独自の取材で社友会誌の記述を探り出し、それを社史に対置することで、その内容に疑問を投げかけている。私が社友誌の関係文章を読むことができたのは、それから六年後のことだった。
(青木忠)

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