空襲の子Ⅱ【53】十年間の調査報告 生名島と弓削島(3)

 「生名村誌」の「高射砲陣地と捕虜収容所」という項目を引用しよう。
―このころ日立造船因島工場の防衛のため、生名島の厳島と深浦には高射砲陣地が設けられ、所属の部隊が配置されていた。その宿舎には生名国民学校の一隅の建物(通称バラック)があてられていた。


 日立造船の社史(「七十五年史」年表)には、昭和20年3月19日に「因島(工場)最初の空襲を受ける」、また同年7月28日には、「因島第二回目の空襲を受ける」とある。これら空襲の際には、生名島の立石や鶏小島の海岸にも爆弾が落ちた。非常事態に備えて、村内には至る所に防空壕が急造されていった。生名村の厳島と深浦の高射砲陣地に駐屯していたのは、福山市の暁第二九五三部隊、松山隊であった(隊員、斎藤惣作名義の財布拾得届による)。
 日立造船の因島工場に就労させられていた連合軍の捕虜収容所も、立石方面に設置されていた。また「朝夕には日本の憲兵に引率されて、造船工場へ往復する数十人の一団が目撃された。青い目の人たちであった」。終戦当時、生名国民学校5年生であった清水(旧姓増成)智江は語っている。
 生名島の高射砲陣地の姿が具体的に記述されている。因島においては、高射砲陣地が土生町と三庄町に設けられていることが分かっている。それぞれの工場を取り巻く形で高射砲が備えつけられ、空襲の際には砲撃が行われた。
 生名島に捕虜収容所があった事実を初めて知った。このことは、同誌の「終戦を迎えた生名村」のところでも、「立石にあった連合軍の捕虜収容所の上空には、米軍機が飛来して救援物資を落下傘で投下していた」と記されている。
 愛媛新聞の取材を受け、「生名村誌」を読むなかで、因島空襲を生名島や弓削島の住民の立場に立って見直す必要性を痛感した。そうすればきっと違った視点が確立できるだろうと思った。因島空襲は同時に、生名島空襲、弓削島空襲であり、県境をまたいだ攻撃だったのである。
 当時、米軍の作成した「HABU」という地図を、あらためて見てみた。因島側が、田熊村、土生町、三庄町、生口島。愛媛県側が生名島、弓削島、岩城島、佐島。攻撃する米軍にとっては、それらすべてが「HABU(土生)」だったのである。
 私の曾祖父が生名出身であることを思い出した。明治16年に濱田家から私の実家である松本家に入籍し、相続している。もともと人々は島同士で盛んに行き交っていたのだろう。島と島との間に境界をつくりあげて、空襲の全体像をイメージする方法は、間違いだったのだ。
 昨年の9月下旬、生名公民館において、「因島空襲調査報告会」を開き、およそ30人の住民と交流をした。大半の参加者が私より年配の方々で、当時の空襲の貴重な体験談を聞くことができた。九月二十六日の愛媛新聞は記事のなかで、因島工場に通勤していた池本滝子さんのコメントを載せている。
―「防空壕では爆風で吹き飛んだ物がぶつかる音が本当に怖かった」「学徒が何人死んだとか、後でうわさが飛び交っていた」と振り返っていた。
 12月中旬には弓削島のお年寄りの集まりに出席させてもらった。飛び入りの参加であるにもかかわらず、時間を割いて体験談を話してくれた。会場のすぐ近くに防空壕跡があった。
 ふたつの島に渡ると、間近に因島工場や三庄工場跡地の風景が広がって見える。対岸の工場を攻める空襲がきっと、怖かっただろうな、と心底から想えた。
(青木忠)

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