空襲の子Ⅱ【51】十年間の調査報告 生名島と弓削島(1)

私は今年の8月下旬、国立国会図書館から取り寄せた「造船政策五十年史」(昭和61年、旧運輸省)を閲覧するために今治市立図書館にいた。その本には、全国の造船所の戦災状況をランク表にしたものが掲載されていた。日立造船因島は、工場施設の半分以下喪失となっていた。

閲覧場所を因島図書館ではなく今治市の図書館にしたのは、その表が今治造船元会長の檜垣俊幸著「船造り一筋」に引用されていたことにも関係している。
その日のことを、8月26日の愛媛新聞は、「因島空襲 実態に迫る」「広島の青木さん今治でも調査開始」「県人犠牲者 情報求める」と、社会面で報道した。

―太平洋戦争末期に軍需工場の拠点として爆撃を受けた広島県尾道市因島―。記録が乏しくて地元でも語られることの少なかった「因島空襲」の実態を調査している男性がこのほど、今治市を訪れ、資料確認などさらなる調査を開始した。「空襲で多数の死傷者がでたはず。対岸の上島町の生名島や弓削島の人も働いていたのでは」と愛媛県人犠牲者の情報提供を呼び掛けている。

この記事の反響は早かった。記事掲載の二日後、松山市在住のご遺族からお電話をいただいた。

―生名島出身の父は30歳のとき、日立造船因島工場の空襲で死んだ。目のところを撃たれて生名島の収容所で息を引き取った。私は当時三歳で、母と祖母とともに駆けつけ、みとった。このままでは父の死は、犬死だ。

つづいて今治市の方から電話が入った。

―当時私は、弓削小学校6年生だった。2級下の友人の日立造船因島工場に勤めていた父親の遺体を、自分の父といっしょに引き取りに行った。またこれより前に、何が理由だか分からなかったが、遺体が弓削の海岸に流れつき、ムシロが掛けられているのを見た。
亡くなったふたりはいずれも、7月28日の空襲の犠牲者であった。戦後67年間を経て初めて知った、とてもつらい事実で返す言葉もなかった。

数年前から交流のあった生名島在住の方とすぐ連絡をとった。2年前にいただいた手紙を再読してみた。

―7月28日の集会に参加しましたのは、生名に高射砲陣地が2箇所あり、因島空襲との関連もあり興味を持っていたためです。
この高射砲陣地の兵隊は、福山市の暁第2953部隊の松山隊だそうです。平成15年頃かと思いますが、当時この部隊に所属していた方が訪ねてきたことがあります。群馬県か栃木県だったかはっきりしませんが、死ぬ前にもう一度行ってみたいと息子さんと共に因島ロッジに宿泊し、生名島まで来られました。
はじめは因島から見るだけのつもりだったそうですが、どうしても現地に立ちたいという想いから、生名島に渡られたそうです。

―因島空襲当日の様子は、生名在住の方(当時弓削商船の3年生)から以下のように聞きました。
午前7時半頃か(朝礼の時刻)、B29が上空を通過していた時に生名の厳島から高射砲で攻撃を始めた。しかし、弾は届かず空中で白い煙がはじけるのみでした。やがて10時半ごろになると艦載機20機が弓削の山を越えて行き、日立造船への空襲が始まったとのことです。この艦載機は腹に爆弾を装着していたそうです。

その方の案内で9月初旬、対空砲陣地跡や日立造船関連施設跡を見学することができた。
(青木忠)

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