空襲の子Ⅱ【49】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(4)

尾道と因島空襲。日立造船因島工場への学徒動員の中心を担った、尾道商業47・48期生は声を大にして語っている。彼らは平成一七年五月、喜寿の年に、「同期の思い出」という小冊子を発行している。


世話人代表の花本功さんは、発刊にあたって次のように述べている。

―この世に生を受けて70有余年、もう第一線を引いた人がほとんどと思いますが、今までの人生が走馬灯の如く頭に残る今日このごろですが、その走馬灯がフーッと止まる時があるのです。

それは昭和19年春過ぎ尾商時代、学徒動員で日立造船因島工場に引っ張り出され、協和寮で他の学校の連中と暮らした一年有余の思い出です。栗原先生(栗ブー)の云う飢えつつ、飢えつつ、死なん程度の食事で一日中腹ペコ、そして蚤・虱と戦いながら、グラマンの空襲に何度も会い友人一人を亡くし、沢山の工員さんが死んだまさに戦場そのものでした。

戦中・戦後を通じて今の日本の基礎を作ったのは我々の時代の者だといっても過言ではありません。同士諸君、長生きしましょう、でないと割の合わない話です。

冊子は、入寮していた日立造船協和寮の当時の全景と尾商棟の写真を掲載している。その建物は現存せず、貴重な写真である。自分たちの寮の部屋割や職場配置が再現されている。他校のことなども書き込まれている。

―昭和19年6月18日尾商3年生は学徒動員令により日立造船因島工場へ出動する(何故か高学年は自宅通勤、向島工場へ)。体調不良のため同級生のうち何名かは動員を免除された。

当時の工場は正規の社員に加え、徴用工、学徒、女子挺身隊、朝鮮徴用工、英軍捕虜など。因島工場への動員校は尾商、盈進、竹原商業、戸手実業、木江造船(以上協和寮)、尾中(生名寮)、土生女学校(自宅通勤)であった。

それぞれの元動員生の回想を記してみよう。いずれも大切な証言である。

―思い出は多くあるが勤労課の時、空爆に会い、阿部君その他多くの人が死に、ムシロの上に真黒になった人、又海で死んだ人は大きく膨れ、皆棺桶に入れ山の上で焼き、臭いで食事が出来なかった。

―半世紀を過ぎた時の流れはやはりあらゆる記憶を茫々の彼方へ押し流しているが、忘却できぬ学徒動員、日立造船因島工場での一年有余、終戦直前爆死した学友阿部正、平成6年50回忌法要有志50名読経香華せり…1年に1度必ず墓参して煙草を供えております。

―20年8月8日夜…福山空襲のとき、因島上空を敵機が通過したので、全員山に避難して、北方の空にうつる猛火を尾道のものと思い、悲痛な思いにかられた。

―最初の空襲(3月19日のものと思われる―筆者)は陸軍の空母熊野丸の中でビルジタンクポンプの取り付けをしているとき、船が大きく上下に揺れた。

上のほうで「空襲だ待避」という声が聞こえると同時に、電気が消え真っ暗闇、動くに動けず困っていると、下士官兵が懐中電気を照らしながらやってきて、「この船は、飛行甲板、格納庫、上陸艇があるから例え爆弾の直撃を受けても大丈夫だ」と説明されて少し安心しながら誘導をうけ、パイプから吹き出す(爆撃の衝撃でつなぎ目がゆるむ)蒸気から身をかわし陸にあがった。

爆撃により、飛ばされた石垣の石で2センチの外板が鉤裂のようにえぐられていたことと、浮いていたボラを小船を出してとっていた小父さんが奇妙な組み合わせで頭に残っている。(人的被害は50人と噂されていた)。

(青木忠)

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