空襲の子【25】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 阿部正君の死(続)

 私達の職場は北と西側が煉瓦積で、東と南が窓になっている建物でした。煉瓦の壁が30センチ位あり、これなら大丈夫と思って北、西の隅へ急いだ。一番奥へ阿部君、続いて私、そして柏原大典、須田禎之、藤原進治、柿原貢の諸君が必死の形相で飛び込んできた。
 なお空襲は続いている。再びドカーン…。私達の職場に直撃したのです。破片や砂塵がもうもうと舞い上がります。熱いような、頭の脳天を割られたような衝撃を感じました。断片による負傷でした。落下してくる瓦礫、破片で半ば埋まり、まったく生きた心地はしなかった。炸裂する爆弾が大地を揺るがし、この世の地獄を思わせるに充分でした。
 やがて舞い上がった砂塵もおさまりますと上が明るくなってくる。建物がない!工場がない!このままではいかん、防空壕へ行かう、誰が云うことなくお互いに励ましあい、横穴式の防空壕へ走った。私が壕へ入った途端、ギャーと云う悲鳴があがる。私の顔、肩に血がまみれている。それを見た女子社員挺身隊の皆が一瞬吃驚されたのです。異様な形相だったのでしょう。
 バケツの水で頭、顔を洗い、血をきれいに拭きとり、消毒してもらった。やれやれ生き返った。おーい皆んないるか。阿部君がいない。阿部君がいない。「危ない行くな。」「戻れ!危ない。」と云う制止の言葉を後にして同僚と共に阿部君を捜しに行く。すでに建物がなく、瓦礫の山と化している煉瓦の角と思われる辺りに阿部君がうつぶしている。おーい元気を出せ!意識はある。「やられた、皆んな済まんな…」という。皆んなで元気づけ戸板に乗せて因島病院へ運んだ。何故か皆んな裸足であった。緊張していたのであろう。踏抜きもせず、怪我もしなかった。静かだ、空襲直後の工場は、閑散として静寂そのものだ。
 あちこちで煙が挙っている。日寅丸はまだ燃えている。人影はまばらだ。因島病院は全身焼傷の人、片足、片手のない人、水をくれと絶叫して息を引取る人、まさに戦場であり、凄惨の極みである。診察の順番がなかなか回ってこない。阿部君は左手を切断し、左下腹部を断片で抉られていて出血が止まらない。(下腹部の傷が致命傷となる。)
 お母さん、お姉さんが見える。何とも云いようがない。阿部君は、まだ意識があった。やがて診察室に入る。私も傷の手当をうける。これが阿部君との永久の別れとなった。私はベッドに体を横たえて断片を抜取り傷の痛みに堪え、高熱と闘っていた。翌二十八日午前十一時ころ、約二十四時間の後、阿部君と幽明の境を異にすることになった。阿部君よ安らかに眠れと静かに冥福を祈る。


 筆者の常盤正和さんは追悼の文章を同窓会誌に掲載する際に、次の文章を付加している。

 ―私達第47回、48回の同期生一同は過去回忌には、法要を営み、又今年は33回忌にあたるので、去る昭和52年7月24日、東京、大阪、九州を始め、全国から馳せ参じて思い出の地、因島に於て、盛大に法要を営みました。次の50回忌は果たして何人集まり得るか、私も65才になる筈です。皆んな元気で一堂に会し、阿部君の50回忌法要を営み、冥福を祈りたいと思います。

写真は尾商生の実弾射撃演習。

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