空襲の子Ⅱ【48】十年間の調査報告 尾道と因島空襲(3)

 向島町の藤井壯次さんが出版した詩集『「ロムニー」の青春』には、東生口国民学校高等科2年の生徒としての学徒動員体験が綴られている。


 東生口小学校の学校要覧の昭和18年のところに、「東生口国民学校児童三共造船へ動員」とある。三共造船は現在、生口産業有限会社に変わっている。金山フェリーの生口島発着港である赤崎港のそばにある。
 藤井さんは、「学徒ではなく学徒兵としての私は、67名の『東生口高等科』の隊長として統率した」と語る。「日立造船因島工場」燃ゆ、という見出しをたて、空襲の体験を記している。

―1945年3月19日第1回、第2回は7月28日、その日も芋がゆが朝食だったので、空腹感はベルトの回転音に焦立つ朝で、食堂での具のないうどん給食の待ち遠しい時間帯であった。
 空襲を知らせるサイレンが鳴り、ドックから走り出た工員の騒めきが異変を伝えた。外に出ると、牡蠣山の山頂から急降下するグラマンの編隊飛行を見た。次々と東南「因島」をめざしていると思った。先頭機の操縦士がマスクの中で笑っているようにさえ錯覚した。
 「防空壕へ!」と指示が飛んだが、私はひとり屋外のドックへの通路へ出た。「動くと撃たれるぞ!」と怒声が連続した。泣きながら軒下を走る女生徒もいた。旋盤ベルトは廻りっぱなしであった。
 ドック内の木造軍艦の船橋へ走る水兵ふたり。2基の機関砲にぶらさがって連射をはじめた。鈍い発射音と白煙が上り、2秒後青い空に薄い黒煙が裂け、続いて炸裂音が尾を引いた。白昼の花火ごっこのようにさえ思えた。グラマン機の列は複線を描き、因島工場を掃射し反転を続けた。色とりどりの硝煙が断続して立ち上がった。15~20分で機影は消えた。
 それから直後であったかも知れない。牡蠣山の山頂を掠めるように、白銀に輝く巨大なB29の編隊が尖った黒い石礫を撒き散した。島が割れるような地響きが続き、白と黒とグレーの棒状の煙が立ち昇った。岸壁に横付けされた1万頓級の貨物船も直撃弾を受け、すでに長崎瀬戸に身を晒しはじめていた。
 「鶴島」を撫でる潮目が黄金色に染りはじめた頃、すでに機影はどこにもなく、引火によると思われる爆発音が小刻みに続き、白い円錐形の弱々しい煙の林が乱立していた。被爆した艦船数隻は燃え続け、瀬戸の狭い海峡に半裸体を曝したままだった。すべてが静寂に還ったのは3日後であった。
 「三共造船」への直撃は免れ、壕から這い出した学徒は定時を過ぎて帰宅した。この日中に直視したことが、私の「アジア太平洋戦争」の唯一の現場となった。

 さらに藤井さんはその日の記憶をたどる。

―敵機に届かない機関砲、吠えない高射砲台、その日の暮れ刻、「鳶ノ子島」はそ知らぬ顔で小さな白波を立てていたのを覚えている。

 敗戦の日の直後のことも忘れられない。

―敗戦の数日後、校長命令で登校となった。最後の出勤を終えた日の午後、赤崎港への渡船から降り立つ人の中で、顔面と両腕を包帯で包んだ3人が海側の道を俯いて歩く姿を見た。私が故郷に帰る被爆者と出会ったのであった。誰も原子爆弾とは知らなかったのである。

 対岸の島から見た因島空襲である。学徒動員の少年はしっかりと見ていたのである。生口島そのものが戦場であったのだ。
(青木忠)

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