ふるさとの史跡をたずねて【207】東浜波止建設寄附碑(因島重井町東浜)

東浜波止建設寄附碑(因島重井町東浜)

大浜埼灯台が明治27年に作られたということは、それより数年前から船舶の往来が激しくなり、また海難事故も多発していたと考えて差し支えないであろう。因島重井町東浜の波止=写真㊤=が作られ、建設寄附碑=写真㊦=が明治23年秋に竣工と同時に建てられていることは、そういう時代を象徴する。

南面には波止寄附録と大きく書かれていて、本村共有が百円、表面記入外個人寄附が72円で、以下寄附者名と金額が続く。裏面は発企、頭取、世話人の名がある。西面には「石工 三庄村光法佐太郎 中庄村田頭岡左ヱ門 田熊村岡野綱次」とある。この人たちは工事に関わった石工であろう。東面には「三庄村 石工 篠塚音松」と、村名と肩書きが逆である。この石碑の製作者だと思う。

さて南面の寄附者名について考えてみたい。「細島中」とあるのは細島からの連絡船の寄港地がこの頃には東浜と決まっていたことを意味する。「向シマ吉原大作」とあるのは、『向島岩子島史』によると明治19年に重井村戸長を勤められた向島西村村長の吉原大作氏のことである。

しかし、「椋浦藤田蜜弥 椋浦平沢歓三」「タタノウミ(忠海のことか)豊太春平 オノミチ上弥代蔵」の重井村以外の方についてはわからない。紙に書かれた寄附録の原本があれば、詳しいことがわかるかもしれないが、それが出てくる可能性は少ない。

現在重井郵便局のある東浜は当時、近くに村役場もありまた白滝山表参道の起点であったから多くの船舶が入港し農産物も積み出されたことであろうから、頻繁に入港する船の持ち主や、商売人であったかもしれない。

あるいは家船で移動する漁業者が一時的に基地にしていたのかもしれない。水や野菜と漁獲物を交換する。地元の人は親切で住みやすそうなところではあるが、しばらくいると古い血縁関係の濃い純農村だと気づく。こんなところには住めないな、と思ったら程なく別の土地へ移動する。そういう瀬戸内海史の一コマがあったのではないかと想像する。

明治23年といえば江戸時代を知らない人たちが社会の中心になっていく頃である。変革の進歩は加速される。天保の老人たちが表舞台から去っていく時期が始まろうとしていた。

写真・文 柏原林造

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