ふるさとの史跡をたずねて【205】力行之碑(因島中庄町大山)

力行之碑(因島中庄町大山)

因島の南北を結ぶ大山トンネルは幹線道路だが、便利なのは車を利用する大人だけで、自転車の高校生には楽しくないだろう。それはもともと人が住み始めたとき隣村との往来のことは考える必要がなかったし、あっても海上輸送に頼っていた時代が長かったのだから、当然の歪みだと言える。すなわち住居は固定されたままで社会生活が変化したのだから移動にかかる時間と費用は仕方がない。

さて、大山トンネルが出来るまで、主に徒歩で往来した峠道がその東側にある。あおかげ苑、ほたるの里の隣を南へ登る道だ。やがて道はため池の右側に出る。大山大池である。池の向こうに民家が数軒ある=写真上

反対側の山側に石碑があり、「力行之碑」と書いてある=写真下

ここでこの言葉と出会うのは驚きであった。その時より10年以上も前だろうか。ふとしたことから海外移住史に興味を抱き、ほどなく関心が豪州から中南米へと移ったとき出会った言葉だ。原野を開墾して農業をする場面で使われていたように思う。また、キリスト教系の移住協力団体の名称として「力行会」というのがあったように、微かに覚えている。

碑文には中庄村釜田の人、松浦作太郎氏が明治26年にこの地に移って開墾し、柑橘を栽培すること37年間で一町歩(約1ヘクタール)に達したということが記されている。

今なら釜田からここまで軽トラで10分もあれば来れるだろうが、当時は歩くしかなかった。麓まで買い物に行くのは半日仕事であったであろうから、時に農機具や食料などを買いに行くことはあったにしても、たいていは自給自足の生活を送ったことであろう。まことに辛苦勉励の日々であったに違いない。

だから「力行の碑」という文字はそのような生活を見事に表すのに最適の言葉であったと思う。ただ、海外移住が国策だった時代を生きた人でなかったら、力を入れて何事かを行ったという普通の意味しか伝わらないのは仕方がない。それはちょうど「三密」という言葉を、これから生まれて来る人たちが10年後20年後にどのように理解するかわからないのと同じである。

(写真・文 柏原林造)

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