空襲の子Ⅱ【40】十年間の調査報告 因島空襲と企業(4)

 前回紹介した、3月19日の空襲についての会社側の発表も過少としか思えない。私は2008年7月下旬、その空襲で右腕を失った板倉治男さんにお会いし、お話を聞くことができた。山陽新聞の青木歓克記者が同席し、記事を書いた。


 板倉さんは、工場側が発行した負傷についての「證明書」のコピーをくれた。その内容は次の通りである。

―右當工場従業員本年3月19日0830頃敵艦上機當工場空襲ノ際入港船帝立丸ニ於テ作業中敵機ノ投下爆弾破片ニ依リ右前膊部ニ負傷、手術ノ結果右前膊部ヨリ切断セルコトヲ證明致候

 私は取材メモに次のように記している。

―午前7時始業。発生午前8時30分から午前九時。帝立丸(フランス拿捕船、武装した貨客船)。エンジンをかけずに土生―生名島―弓削島海上の中間あたりに停泊していた。零式水中聴音機(対潜水艦)の試験運転。本人は電気監督課所属の電気技師。呉海軍工廠から指導官が一人きていた。ブリッジにいた。

 天狗山の方からグラマン2機。耳と目を押さえ降りたタラップの途中で、右腕がダラーと落ちた。下半身のない、内臓のない軍人の上半身が落ちてきた。爆弾によるもの。その後から機銃掃射の音が聞こえた。テレビでその映像を見た(日本テレビ「ズームイン朝」が1995年、2回にわたり、3月19日因島空襲の米軍映像を全国放映した)。
 サロンデッキに5、6人の兵隊の死体が並んでいた。デッキ上の砲台から反撃、その全員が狙われた。3月19日は陸軍、7月28日は海軍と陸軍。
 ズボンのベルト代りの紐で止血。日立因島病院で手術、腕を切り落とした。院長の米田外科医が手術。戦後まもなく工場にいったら、一号岸壁に艦船、貨物船など多数が沈没していた。
 板倉さんの被災について事前にある程度のことを聞いていた。同じ時期に工場で働いていた方、当時因島病院の看護婦見習いだった女性からである。しかし、これほどまでの犠牲者がでたことに驚かされた。
 当時、旧尾道中学校(現在の尾道北高校)の学徒動員で3月19日空襲を体験した花咲清康さんは、次の文章を寄せてくれた。

―『1945年(昭和20年)3月19日米戦闘機因島日立造船所空襲』 私一人そこに立っていました。誰一人として居ません。空襲警報が出ていたのでしょう。

 工場は全く静かで蒸気のもれる音がかすかに聞こえました。轟き合う米軍機の音に驚き、見ると何十機も何十機もの米戦闘機グラマンF6Fが岩城山の上を呉へ呉へと―。
 何故米軍機が瀬戸内海を大集団で飛んでいるのか不思議でした。
 そのうち最後尾の4機が反転(一寸様子を見ようと)弓削上空を三庄方面へ急進。あれどうするのかと思っていたら、急に天狗山から浮き出し、私に向って砲撃を加えて来ました。青空を背景にジュラルミンに輝くグラマンF6Fは美しかった。両翼の3門X2の12.7㍉機関砲の打ち出す閃光、白い帯を引く六条の硝煙など美しく見取れていました。怖くなり気がついた時は丸太を抱きかかえ皆と共に銅工場のすみでふるえていました。
 会社側の発表は、軍統制下の当時の内容をそのまま継承したものであろうが、実相と明らかに違う。改めて三月一九日の空襲についての資料を読み直してみた。実際に空襲を体験した人たちのお話がいかに大切であるか、思い知らされた。
(青木忠)

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