空襲の子Ⅱ【39】十年間の調査報告 因島空襲と企業(3)

 当時の造船所は軍需工場であったから、軍の統制下にあり、空襲被害の発表も過少になされたことは言うまでもない。問題はその内容が戦後も企業によって見直されることはなく、維持されたままになっていることである。


 日立造船の桜島、築港、神奈川も、会社独自の調査が行われた形跡がなく信じられないほど大ざっぱで、死者に対して無神経である。「数十名の犠牲者」「従業員三十余名の犠牲者」「多数の死傷者」などとあいまいな表現の連続である。因島の場合はあまりにもひどい。
 当時、因島工場の勤労課職員として社葬責任者の役を担った三浦勉さんは、「日立造船75年史」の記述について次のように語っている。

―ひとつ私が思い当たるのは、戦時中はもう、軍の統制なり、言論統制が厳しかったですからね、被害は過少に発表するわけですよね。過少を超して大嘘と言われる大本営発表のようにですよね、私なんかそれを読みますと、戦時中の発表を横流し的に写したような気がするんですけどね。

 さらに三浦さんは、工場の被害について述べる。

 ―このとき、人がやられたほかに、工場の生産設備ですね、大量に破壊されました。工場の屋根がすっかり飛んでしまいましたしね、なかの機械もやられました。造船の工場というのは、ひとつではないですからね、広い場所にいろんな工場がありますから、どこかひとつが徹底的にやられると、流れ作業のようなもんですからね、全体がスムーズにいかんようになってしまうんです。七月の空襲の後は、工場が一時的に動かないくらいダメージを受けました。

 因島工場に学徒動員されていた尾道商業生の常盤正和さん(48回生)は、7月28日の空襲で犠牲になった同学年の阿部正さんへの追悼文「阿部正君の死」(尾道商業高校90年記念誌)のなかで、空襲で破壊された工場の様子を記している。

―なお空襲は続いている。再びドカーン…。私達の職場に直撃したのです。破片や砂塵がもうもうと舞上ります。熱いような、頭の脳天を割られたような衝撃を感じました。弾片による負傷でした。落下してくる瓦礫、破片で半ば埋まり、まったく生きた心地はしなかった。炸裂する爆弾が大地を揺がし、この世の地獄を思わせるに充分でした。やがて舞上った砂塵もおさまりますと、上が明るくなってくる。建物がない!工場がない!このままではいかん、防空壕へ行かう、…。

 常盤さんの描写から、工場がひどく破壊された様子が伺える。三浦さんと常盤さんの証言は、つい最近、確認された新事実――日立因島の工場施設の半分以下喪失――を明確に裏付けている。
 それに加えて、岸壁には、少なくとも四隻の船舶が撃沈され、沈んだままになっていた。日寅丸、大玄丸、光隆丸、SB艇である。
 さて最大の事実のねつ造は、死者数である。日立造船社史は、3月19日と7月28日の空襲の死傷者は合わせて数名だと言い張る。誰も信じていないが今日にいたるも訂正しようとしない。
 ところで広島県戦災史に3月19日の空襲について、日立造船関係者談として、次の記述がなされている。

―なお、当日朝、この空襲(呉空襲)のまきぞえをうけて、日立造船因島工場にもグラマンが飛来し、修繕を終えて出航しつつあった帝立丸が機銃掃射をうけ、工員一人死亡、技師一人が右腕を失うなどの被害があったという。

(青木忠)

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