空襲の子Ⅱ【37】十年間の調査報告 因島空襲と企業(1)

先日、福山市の女性に、因島空襲について企業が情報を改ざんしたことを説明していると、「東京電力と同じですね」との反応が返ってきた。今風には、そのように表現するのか、と思ったが、空襲に関する情報操作は、原発とは比べものにならないほど、ひどいものであった。


しかし、嘘は必ず真実に敗北する。企業の嘘が100%崩壊するときがやってきた。船舶史を研究しつづける中村公巳氏の蔵書の一冊を読んだとき、それを確信した。

「戦時造船史―太平洋戦争と計画造船」(小野塚一郎著、日本海事振興会)である。昭和37年3月24日発行となっている。

戦災経過が記述され、つづいて造船所別に戦災の状況を表にして示している。日立造船因島(土生と三庄両工場)について、造船能力(年間造船総噸)=10~15万▽戦災程度=中▽戦災主要原因=艦載機爆弾、と記されている。

戦災程度中とは、工場施設の半分以下喪失とある。

同書のこの部分の表は、国・運輸省の「造船政策五十年史」(昭和61年)、日本一の造船所に成長した今治造船元会長・檜垣俊幸著の「船造り一筋」にも引用されており、造船学会や造船界の共通認識になっていた。

同書の「戦訓」という項目の次の点が注目される。

(イ)播磨、日立因島、日立神奈川などの例にみても、特大型爆弾は別として、一般のものの10発や20発くらいでは致命傷にはならないようである。(日立造船因島に、10発~20発の爆弾が落ちた事実を伺わせる。しかし、同社社史は一切、そのことにふれていない。)

(ハ)播磨、日立因島などのように、船台や船渠がやられるのはむしろ異例に属する。(空襲によって船台や船渠がやられたという事実は、私の空襲調査結果に一致するが、社史には同じく、まったく記述されていない。)

(へ)十分な防空施設は出勤率を維持する。その例として、浦賀船渠浦賀、三井玉野、川南香焼島、日立因島などをあげることができる。これはいずれも横穴式防空壕であった。(現在の日立造船因島工場の内部には今なお、巨大な防空壕群跡が見て取れる。目視でも50にも及ぶ数である。また旧三庄分工場周辺にも巨大な防空壕跡が複数残っている。)

こうした横穴式壕が、当時工場に通勤する工員たちの不安を和らげ、出勤率の向上に役立ったのだろう。しかし、会社側が、戦争遺跡としての防空壕調査に非協力的なのはなぜだろう。

著者の小野塚一郎氏の経歴を見てみよう。明治44年、長岡市生まれ。昭和10年、東京帝大工学部を卒業し、すぐに海軍に奉職。昭和15年、工作艦朝日の造船主任になり、カムラン湾及びシンガポールにて戦闘工作に従事し、帰還。終戦当時、海軍技術少佐。昭和23年、日立造船入社。昭和36年、同社調査部長。後に同社副社長。

経歴から分かるように同氏は、戦時の計画造船の実情に詳しいばかりか、日立造船の内情も熟知していたことだろう。記述に日立造船系の工場名が数多く出てくる。空襲の被害状況にも明るかったであろう。

これからは私の推測の領域に属するものだが、熟知している者のみが可能な、情報操作と情報改ざんに同氏が関わっていないことを切に願うものである。

いずれにせよ企業の嘘は崩壊したのだ。日立造船調査部長自ら、そして国・運輸省が日立造船のウソを暴いたことになる。

(青木忠)

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