空襲の子【24】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 阿部正君の死

 わたしは昨年7月、土生町出身の尾道商業学校学徒動員生の阿部正さんが日立造船因島工場で空襲をうけて亡くなり、「阿部正君の死」と題する追悼文が同校同窓会誌に掲載されていることを知った。執筆されたのは常盤正和さん(48回生)である。昭和23年、筆者が19歳の時だとのこと。了解をいただき、掲載することとなった。


 阿部正君の被爆死は日立造船(株)因島工場に学徒動員中のことで、全員入寮が原則となっておりました。私達は協和寮第三中隊です。阿部君は因島の出身で特に自宅からの通勤が許されておりました。写真は「玉の浦辺による船の尾商創立九十周年史要」。
玉の浦辺による船の尾商創立九十周年史要

 昭和20年7月27日、前夜は一晩中警戒警報、空襲警報が出され、既に沖縄は陥落し、アメリカ機動部隊が土佐湾に現れ艦砲射撃をし、艦載機による波状攻撃をするという状況でした。私達はいつものように午前六時起床、大豆粕のめしと、芋づるの汁で朝食を済ませ、全員元気で出勤いたしました。寮から工場の門まではわずかな道程です。徴用工、米英軍捕虜などと一緒に隊を列ねて歩いたものです。工場の門のすぐそばまできたとき、警報なしで突如、グラマンF6F、六機による攻撃をうけました。茫然自失、為すところを知らず、唯々逃げ惑うばかりです。
 接岸中のタンカー船砲隊が、勇敢に、応戦しており、彼我の間に飛び交う曳光弾が忘れていた夏祭りの花火を思い出させる光景でした。僅か数分間の出来事であったが、多感な少年の脳裏に強烈に印象づけられ今も忘れることは出来ない。
 今日は大変なことが起きるぞと予感しながら職場に向って歩きだしました。私の職場は建設部建設課(今なら営繕課?)、錬鉄工場、鋳物工場、木型工場などが対空疎開のため、三庄家老渡へ移転中であり、私達の職場も移転が完了したばかりのところでした。いつも自宅から出勤してくる阿部君と職場の前で会います。今日は空襲をうけた直後でかなり興奮して話がはずんでおりました。そのうち又警戒警報、空襲警報が出ました。
 私達は、このような時、江の内の見張所へ監視に行くよう指示されておりました。警報が出たり、解除されたりするので当惑していたら、本番!いきなり本番です! 第二次空襲のため飛来したグラマンF6Fが工場の上空を旋回しているではありませんか。生名島の高射砲が唸り、入湾中の艦船が一斉に火蓋をきりました。グラマンF6Fも今度は機銃掃射だけではなく、爆弾を抱いているのが判り、肉眼で見えます。これは大変だと思っているうちに接岸中のSB艇に命中轟沈、となりの日寅丸も被弾し炎上している。ひょっと上を見ると急降下してくるグラマンF6Fの操縦士の顔がよく見える。
 胴から爆弾が離された。鳥が糞をしたような情況だ。ザーと云う音をたて、自分に向かってやってくる。無意識に伏せて訓練された通り、目をとじ、耳を塞ぎ、口を空けて、息を殺してじっとしていた。青白い閃光を発し、黄粉臭い臭いがしたと思った途端、ドカーン…、しばらく意識は朦朧としていたようです。どの位の時間が経過したのか解らないが、機銃掃射の弾丸が鉄板に響く音で、吾にかえり、急いで避難した。

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