空襲の子Ⅱ【35】十年間の調査報告 因島空襲と行政(6)

 空襲の真相を調べることは当然の営為であり、ためらいなど生まれはしないはずである。ところが私は当初から、得体の知れないプレッシャーの渦中にいた。最近、その正体が何であるか整理がついた。たったひとりで、アメリカ政府と日本政府に戦いを挑んだということなのだ。今度の戦場は、東京ではなく生まれ故郷である。


 世界最大級の図書館であるアメリカ連邦議会図書館は2009年11月、私の自主出版本「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」を、日本出版貿易(株)海外営業二部(東京千代田区)を通じて注文してきた。思わず空を見上げた。アメリカ政府は依然として私を見張っているのか。
 仲介した会社は、「何冊かの注文のなかに、著者(青木)の名前と住所を記したものがあった」と説明。専門紙の「図書新聞」は、「日本の自主出版物が米連邦議会図書館の購入対象になることは珍しい」と語った。
 親族で、アメリカに在住しているスタンフォード大学名誉教授の青木昌彦氏にも問い合わせてみた。「アメリカの情報収集力はすごいだろう」との返信。そのうえで、「おめでとう」と祝ってくれた。物書きにとっては、とても名誉なことなのだろう。
 何故アメリカは、そこまで関心を示したのか。私が調査した内容は、アメリカが一切知らないものばかりなのだ。彼らは戦後すぐに戦略爆撃調査団を派遣し、「空襲の効果」を調べた。そして現在、多くの日本人研究者がこの資料に依拠して、空襲の実態を調べている。
 私は逆の調査方法を取った。空襲の加害者の立場ではなく、被害者の立場から、空襲の全貌を描こうとしたのだ。
 驕りたかぶった勝者が、被害者の叫びに耳を貸すはずがない。「お前らに分かるはずがないだろ」とつぶやきながら調査をつづけていったのだ。
 調べれば調べるほど、知れば知るほど、憎悪の念が渦巻いてくる。もうこれは戦争ですらない。無差別の殺戮であり、ジェノサイド(皆殺し)でしかない。そのことをアメリカが全面的に認め、謝罪するまで調査活動は終わることはないであろう。
 日本政府に対する考えも大きく変わった。「全国戦没者追悼式」や「靖国神社参拝」の行事など見ていて、戦争犠牲者に対する礼儀ある対応が国家によってなされているものと考えていた。とんでもない思い違いであった。とりわけ空襲被害者は、「犬死」と評価された当時のまま、放置されていた。国家は一度たりともその実態調査さえ行っていないということ知った。
 因島空襲の場合、どのように考えれば良いのか。少なくない軍人が軍務についており、死んだことは間違いのないことである。その後、どのように弔われたのか。因島の工場で死んだ若き徴用船の船員たち。故郷から遠く離れた、無念の死であったに違いない。
工場のなかで抵抗の術なく死んでいった従業員たち。出身地は全国または朝鮮半島にも及んでいた。その非業の死は遺族の元に届けられただろうか。
 三庄町空襲で死んだ17人と言われる住民たち。この事実は、公の歴史から消し去られたままである。死んだ半数以上が子どもだった。同町に避難していた沖縄の学徒疎開者や神戸空襲被災者の死が傷ましい。近くに軍需工場さえなければみんな、死ななくてもよかったのに。
 因島空襲の犠牲者は二度殺されたのだ。一度は空襲によって。二度目は、同じ日本人によって歴史から抹消されることによって。だから因島での追悼の営みは、偽りの歴史を覆し、事実を事実として明らかにすることから始めねばならないのだ。
 どんな些細なことでもよい。判明した事実を霊前に捧げつづけていくのみである。
(青木忠)

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