空襲の子Ⅱ【34】十年間の調査報告 因島空襲と行政(5)

 私が三庄町の松本家から椋浦町の青木家の養子に入ったのは、1962年(昭和37)6月5日のことである。この時をもって青木茂氏は、義理の叔父になった。それからほぼ六年が経て、彼は「因島市史」を編纂し、私をいったん死にまで追い込んだ因島空襲の事実を否定した。どのような因縁だろうか。


 ふたりの戦後の歩みは対照的である。茂氏は近現代史に背を向けたが、私は決してその道を選択できなかった。熾烈な戦争の渦中に誕生した私は、空襲に見舞われることによって、「空襲の子」として生まれかわったのだ。空襲で同じ三庄町の無垢の子どもたちが10人以上死んだ。そうした無辜(むこ)の精神を誰が背負えばよかったのか。
 呪わしき戦争と母と祖母を失った戦後を私は、忘れたかったに違いない。中高と野球に夢中になったのもそのせいかもしれない。生まれ育ったこの島をどうしても、心底から好きになれなかった。広島大学への進学を機会に広島市に脱出すれば、得体の知れない居心地の悪さから解放されるかも知れないと期待した。
 ところがそこで、すでに終わり、忘れたはずの戦争の現実を思い知らされたのである。ラジオニュースが流されていたのである。大学の正門前の原爆病院で入院中の被爆者が亡くなったという。確か1人や2人でなかったと思う。
 大学の正門を通るのがつらくなった。明らかに心身が乱れた。やがてほとんどの大学の講義を休み、大学に顔を見せなくなった。
 こうした危機を救ったのは、学生運動だった。大学に運動があったわけではない。自らがゼロから作り始めたのだ。大学とはいったい何なのだ。大学の主人公は、俺たち学生ではないのか。何も就職口を探すためにやってきたのではない。自ら学び、議論し、表現し、行動する。思い切り成長し、その力をもって社会に献身しよう。
 自らの感性、理性を抑制するのはやめよう。己の人生は己の選択にまかせよ。自分にかかわりのある一切のことに、自分で責任を持とう。何とも言えない解放感であった。生まれて20年足らずの人生ではあったが、鬱積したものが堰をきったごとく体外に溢れ出ていった。
 私の怒りは、ストレートに米国、そして共同歩調をとる日本政府に向かった。原子力潜水艦、原子力空母、米軍燃料タンク輸送、ベトナム戦争、沖縄問題。ある時は、多くの学生たちとともに、東京都内の米軍基地に突入し、蹂躙した。激しい行動への迷いは何ひとつなく、死ぬことさえも怖くなかった。
 あの激情は何だったのだろう。革命のため、イデオロギーと政治理論の実践のため。それらでは言い尽くせない他に何かがあったのではないか。当時は無自覚であったが、あの空襲への仕返し、復讐の闘いであったのではないか。
 家屋は全壊し、生活もくずれてしまった。自分は死にかけ、赤子の私を守ってともに生き埋めとなった母と祖母は早死にしてしまった。この怨嗟がそう簡単に消え去るはずがない。我慢に我慢し、内面にためこんで耐えるのも限界がある。大学に進み、そこでヒロシマを具体的に認知することで、私の内面で何かが弾けたのだ。限界ぎりぎりにまで膨らんだ「戦争体験」という器だったのか。
 やがて私はUターンし、舞台を故郷に移し、再び米国と対面することになる。因島空襲の調査である。しかし、街頭行動では恐れを知らなかった私であったが、この課題は簡単ではなかった。それ相当の準備を必要とした。
 ゼロからの再出発のわが家族であった。食っていけるのか。生活が成立しないところに何も始まらない。私以外、全員が初めての土地である。馴染んでくれるだろうか。生活にめどがつくまでほぼ10年近くを要した。あとは、ためらいを払拭するだけであった。
(青木忠)

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